「音楽がなかったら」ユーロビジョンソングコンテストを観ながら考えた「もしも」の話 / 一木 大朔
そんなことを考えていて、ふと想像した。もしも音楽がなかったら
私は最近、音楽の役割について少し考えることがあった。
きっかけは、ユーロビジョンソングコンテストという音楽番組である。
ユーロビジョンソングコンテストとは、ヨーロッパで60年以上続く音楽祭で、毎年ヨーロッパ周辺の40カ国近い国々が代表アーティストと代表曲を選出し、一堂に介してパフォーマンスを行い優勝を争う。歴代の優勝者にはABBAやマネスキンなど、日本でも知名度のあるアーティストもいる。その模様はヨーロッパ全土はもちろん、現在では世界各国で生中継されている。
ユーロビジョンとの出会いは、父の仕事の都合でドイツに住んでいた十数年前まで遡る。ドイツ語の疑問文の作り方もよくわからないまま渡独していた小学生の私の暇つぶしはもっぱら、言葉がわからなくても楽しめる洋楽だった。
そんな私は放映を見て、このコンテストの虜になった。まず私の心を踊らせたのは、出場曲のバラエティの豊かさである。各国の音楽はジャンルはもちろん、曲調や歌う言語すらもバラバラ。フランス代表が高らかにオペラを歌い上げたかと思えば、スウェーデンのイケメンが割れたガラスの中で踊ったり、ベラルーシの美女が「アイラブベラルーシ」と祖国への愛を叫んだりする。出場国のパフォーマンスは、日本人の私からすればヘンテコなものも多かったが、それぞれの国が魅せる音楽の多様性は世界の広さを感じさせてくれた。また、そんな多様な音楽による国境を越えた優勝争いという、ありそうでなかった競技性にも夢中になった。普段から全くスポーツを見ない私にとって、このような勝負事の興奮は新鮮だったのだ。
日本へ帰国後も私のユーロビジョン熱は冷めることなく、もう10年以上も視聴を続けている。毎年、コンテストの数ヶ月前から発表される各国の代表曲を逐一チェックし、優勝予想をしながら大会の開幕を待つ。いよいよ本番が到来すると体力勝負の始まりだ。コンテストは計3日間開催され、当然ながらその放映時間は欧州が基準。リアルタイムで視聴しようとすると、極東の島国の民である私は期間中、3度の4時起きを強いられることとなるのだ。それでも私はさながら海外サッカーのファンのように、眠い目をこすりながら毎年結果を見守っている。
コツコツ集めた過去24年分のユーロビジョンのCDアルバム
ユーロビジョンは年に一度の熱狂を与えてくれるだけでなく、音楽を通じて、私と海外を繋げてくれる。ユーロビジョンを観なければ、その文化に触れる機会がなかったであろう国は数知れず。それどころか、お気に入りの曲の歌詞の意味が知りたくて高校生のときに始めたフランス語は、大学院生となった今でも私の勉学に大いに役立っている。
さらに、今から約5年前、大学生だった私は、旅先のスロベニアで、現地の人とこの大会の話題を通じて仲良くなることができた。朝からガイドをしてくれていたその人は、こちらに気を遣ってか大人しい印象だったが、夕食時に話を振ってみたところ、予想以上に盛り上がったのだ。ちなみに、スロベニアはユーロビジョン的には弱小国。その人にスロベニアの好きな代表曲を尋ねられ、少し困ったのはここだけの話だ。
大学生の頃、旅したスロベニアをガイドしてくれた現地の人たちとの1枚
印象に残っているモロッコのサハラ砂漠の景色
ユーロビジョンと出会ってから、私の人生は少しばかり豊かになった。しかし、そんな大会の結果は近年、国際情勢の影響を受けているように思われる。大会の順位は審査員と視聴者による投票の合計で決まるところ、 2022年大会は歴代最高の視聴者票を得てウクライナが制した。当時、ロシア軍による侵攻という逆境の中で優勝を果たしたウクライナに対して、多くの祝福の声が寄せられた。しかし、このとき、どれほどの視聴者がバイアスなくウクライナの音楽を純粋に評価したのだろうか。
実は同様の現象が今年も見られた。優勝こそ逃したものの、イスラエルに大量の視聴者票が流れたのだ。もっとも、SNS等を見てみると、イスラエルへの高得点に関しては、ウクライナ優勝時と比べて圧倒的に否定的な意見が多く、中には戦争への抗議の意を示すため、イスラエルには投票すべきではなかったとするものさえ見られる。
私には、二つの国に対する反応の違いを分析するだけの知識はない。しかし、このユーロビジョンの現状に直面したとき、私は大会における音楽のありかたへの違和感を抱かずにはいられなかった。コンテストという場において、ある国に対する支援の意を示すために投票することも、抗議の意を示すために投票しないことも、純粋に音楽を評価していないという意味では同じなのではないか。各々が戦争に対し、様々な感情や思想を抱くのは当然であるし、それを表明することは重要だろう。しかし、国の垣根を超えて感動を共有する力を持つ音楽が、立場の表明の材料として使われていることを、私は非常に哀しく思う。
当然、戦争への抗議は音楽よりも優先すべきであるという意見があるのも理解できる。しかし、音楽は立場に関係なく楽しめるものであって欲しいし、あるべきだと思うのである。
そんなことを考えていて、ふと想像した。もしも音楽がなかったらどうなるのだろう。
私は今年で25歳になる。週末が訪れるたび友人と居酒屋に集まっては「あの人の新曲は聞いたか」「今度フェスに行かないか」などと駄弁ってばかり。しかし、この一見なんの生産性もない会話が何よりも楽しい時間だったりする。また、深く落ち込んだとき、励ましてくれたのは沢山の音楽だった。もしも音楽がなかったら、私は今も落ち込んだままかもしれない。
音楽には人生を豊かにする力がある。
しかし、音楽を楽しむことが、別のなにかの道具のように使われているとすれば、私たちの心を支えてくれている力のある音楽は、なくなってしまうのではないか。
もしも音楽がなかったら。今はあくまで「もしも」の話だ。
一木 大朔プロフィール
1999年福岡県生まれ。慶應義塾大学でフランス民法の研究をしている横浜在住の大学院生。
趣味は旅行、音楽鑑賞、映画鑑賞など。印象に残っている旅先はモロッコのサハラ砂漠。今年ライブを見に行ったアーティストはブルーノマーズ、King Gnu。
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