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殺害されて100年…「わきまえなかった女」伊藤野枝に改めて注目する

女性の解放を訴えた伊藤野枝(1895~1923年)が、日本陸軍の憲兵に虐殺されて100年。9月15日と16日、野枝の出身地である福岡市西区で大規模な記念イベントが開かれた。RKB毎日放送の神戸金史解説委員長も会場を訪ね、19日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で伝えた。

「伊藤野枝」100年フェス開催

9月15日と16日、福岡市西区の「さいとぴあ」で「伊藤野枝100年フェスティバル」が開催されました。私は16日に行ったのですが、400席がほぼ満席でした。この9月16日は、伊藤野枝さんの命日です。
 


野枝を知らない方も多いかもしれませんが、1895年(明治28年)に福岡県糸島郡今宿村(現・福岡市西区今宿)に生まれ、女性解放運動に専念した活動家として知られます。日本で初めての女性文芸誌『青鞜』の2代目編集長を務めました。
 

(14歳の伊藤野枝=矢野寬治さん提供)

『青鞜』の創刊号(1911年)に、平塚らいてうが書いた「発刊の辞」は、今も教科書に載っています。

元始、女性は実に太陽であった。真正(しんせい)の人であった。/今、女性は月である。他に依(よ)って生き、他(た)の光によって輝く、病人のような蒼白(あおじろ)い顔の月である。/さてここに『青鞜』は初声(うぶごえ)を上げた。/現代の日本の女性の頭脳と手によって始めて出来た『青鞜』は初声(うぶごえ)を上げた。

この『青鞜』を、らいてうから引き継いだのが伊藤野枝さんです。

神田紅さんが新作講談『野枝物語』をお披露目

「伊藤野枝100年フェスティバル」では、日本講談協会の会長で講談界の第一人者の神田紅さんが登壇し、新作講談『野枝物語』を初披露しました。神田さんは修猷館高校卒業の福岡県人です。
 

(講談師・神田紅さん)

神田紅さん:野枝は幼いころから好奇心旺盛な女の子で、「知りたい」「勉強がしたい」「本が読みたい」……でも家には本がないので、押し入れに入って、貼ってある古新聞を読みふけっていたと申します。また、今宿の家からはすぐ目の前に海が広がっていて、向こう岸に能古島が見えます。その能古島まで、約4キロの海を泳いで往復したというのですから、怖いもの知らず!

野枝さんは、自由を追い求めた、ある意味「わきまえない女」だったと言えます。家父長制が根強く、言論の自由が弾圧されていた時代に、親が決めた夫と結婚させられました。
 

福岡を飛び出し、女学校時代の恩師を頼って東京で暮らし、結婚して子供も授かりますが、のちにアナーキストの大杉栄と一緒に暮らし始めます。イエ制度を批判し、「自由恋愛」を標榜した伊藤野枝さんは、「淫乱」とののしられたり、「国賊」と言われたりと、ずっと批判の対象でもあったのです。

大震災後に権力によって虐殺された野枝

作家の森まゆみさんが、「『青鞜』時代の伊藤野枝」と題して記念講演をしました。森さんは岩波文庫『伊藤野枝集』の編者です。
 

森まゆみさん:今年は関東大震災が起きて100年になります。伊藤野枝と、パートナーであった大杉栄、大杉のおい橘宗一(むねかず)さんが殺されてちょうど100年の命日ということになります。この年に、今日これだけの沢山の人が来てくださって、福岡で「伊藤野枝フェスティバル」が行われるということに、本当に私はびっくりしているし、感激しています。

森まゆみさん:この二人は、何の悪いこともしていないです。なのに、国家権力=憲兵隊によって殺された被害者であるのに、長いこと国賊とか非国民と言われ続けてきた二人なんです。アナーキズムというのは、「無政府主義」とされ、政府を転覆させるとか、テロリストみたいに見られがちですが、元々の思想は「アナルシー」、何の強制もない、自由だという意味です。そういう社会を彼らは作ろうとしたんです。それは、いつか来る社会ではなくて、自分たちの今生きている姿がアナルシーでなければならないと思っていたので。

自由に生きようとすること自体が「罪」である時代。大杉栄(36歳)と伊藤野枝(28歳)は権力から目を付けられ、関東大震災の後、ちょうど100年前の9月16日、陸軍憲兵によって殺害されたのです。たまたま一緒にいた大杉のおい橘宗一(6歳)も殺されています。

森まゆみさん:親が(嫁に)行けと言ったから行ったとか、家に子供がいっぱいいてとてもじゃないけど食べられないので嫁に行ったとかという話は、野枝よりずっと下の世代までありますよね。それを「やっぱりおかしい。やめなければならない」と思ったのが、野枝のすごいところです。同じような考えを持つ仲間と東京で出会って、運命が展開していくわけですが、自分で悩み苦しんだ中から出てきた思想を野枝は書いていますから、殺されなかったら、もっともっと伸びしろのあった人だと思います。でも、「畳の上で死ねない」という自分の予測の通りに、野枝はくびり殺されたんですが。

「他人によって受ける幸福は、絶対にあてにはなりません。どれほど信じ、どれほど愛する人によって与えられる幸福にしても、私はそれに甘えすがってはならない、と思っています」(『婦人公論』1923年5月号)。

森まゆみさん:私はこの文章がすごく好きで、いつも自分の頭で考え、人に頼らないで生きていきたいという時に、すごく励まされる文章です。

100年早かった女・伊藤野枝

会場の400人に「どこから来たのですか?」と質問が出ました。北海道・東北という方もいらっしゃいましたし、東京もかなりいました。100年たって、伊藤野枝の生き方について改めて光が当たってきたなと思います。


来ていた方に、感想を聞いてみました。

神戸:野枝さんの生き方、どう思いました?

女性:大胆ですね。私も「こうしなさい」と言われるのは好きではないので、信念に基づいた生き方は、すごいなと思います。当時、形を残してくれたので、今そういうことを勉強できる。もうちょっと後の時代に生まれれば、違った形があったのかなとは思います。

女性:私は平成生まれなので、女性が仕事をするとか、結婚しない選択とか当たり前だと思って生きてきていて、100年前に、もっと「女性は結婚して子供を産めばいい」という風潮が強い中で、子供を産んでも仕事を頑張って、社会の風潮に逆らって、ものともせずに自分の道を生きた野枝さんの生き方に感動したし、そういう風に生きていきたいなと感じました。野枝さんが28歳まで生きて、その先を私はまた生きているのだと思い、これからどう生きていけばいいのか、すごく考えさせられる時間となりました。

アナーキストの新しい定義

アナーキスト=無政府主義者という言い方をします。テロリスト、政府の転覆をもくろんで爆弾を投げる人みたいな印象を持っている方も多いかもしれませんが、今は――。

二〇一六年に三十五歳で台湾のデジタル担当政務委員に就任したオードリー・タン(唐鳳、一九八一~)は、台湾でのコロナウィルスのまん延を食い止める上で重要な役割を果たした。彼女は「IQ180のIT大臣」などと呼ばれ、日本でもネットやテレビで紹介されるとともに書籍も刊行され、すでに「時の人」となっている。

タンは、自身をアナキストであると繰り返し説明している。日本ではアナキストの訳語として「無政府主義者」という語が使われてきたが、彼女にとってアナキストと「無政府主義者」は大きく異なる。「無政府主義」という語は、「本来の意味を狭める」からである。

この「本来の意味」とは、「政府が強迫や暴力といった方法を用いて人々を命令に従わせようとする仕組みに反対する」、「ある企業が強迫的な手段や暴力的手段によって社員を無理やり命令に従わせていたら」、「そのやり方を変えることを望む」、そのような「権力に縛られない」「立場」のことである。したがって、政府があるかないかは大きな問題ではない。タンの見解は、「誰がアナキストか」という問いに対する答えである。

アナキストと「無政府主義者」を同義と捉え、アナキストとは政府の転覆をもくろみ爆弾を投げる人々である、あるいは、アナキズムとは国家や政府を否定する思想である、と思い込むと、破壊されるべき政府の側にいるタンの主張は矛盾に満ちたものにしか見えない。しかしタンはそのような狭いイメージに囚われることなく、権力に縛られず、政府や企業による暴力や強制に立ち向かい、これを変えようとする「立場」をアナキストと呼ぶ。

『アナキズムを読む 〈自由〉を生きるためのブックガイド』(皓星社、税別2000円)編者の田中ひかるさんが書いた「序章」より引用。

「ここで、自分の理想を実現しようとする人々」と考えたらよいと思います。まさに、100年前の野枝はそういう考え方をしたのでしょう。

野枝を知るための小説やドラマ

(フェスティバルで制作されたデザイン)

野枝を主人公にした小説には、瀬戸内寂聴『美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄』(岩波現代文庫)や、直木賞作家・村山由佳さんの評伝小説『風よ あらしよ』(集英社、上・下巻、吉川英治文学賞受賞作) などがあります。


村山さんの本を原作にした同名ドラマを、NHKが1年前に放送しています(出演・吉高由里子、永山瑛太、松下奈緒)。改めて、野枝の生き方に光が当てられる時代になってきました。


100年前、関東大震災の後に朝鮮人・中国人の虐殺が起こりましたが、混乱に乗じて政府権力は、その当時自由に生きようとした人たちを罪だと考え、殺してしまっていたわけです。虐殺は民衆だけじゃなくて、日本政府そのものも行っていたと考えさせられた「伊藤野枝100年フェスティバル」でした。

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この記事を書いたひと

神戸金史

報道局解説委員長

1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。