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母と歩いた被爆地の光景 9歳の少年は50年間、話すことができなかった 

60歳をすぎてようやく自らの被爆体験を語り始めた男性がいます。「思い出すと落ち込む」苦しい惨状を、あえて今年も若い世代に伝えました。

被爆地で母が叫んだ言葉に驚いた

岡崎満也さん(87歳)
「川にですね、堰があるんですね、水をためるような。そこに多くの人が水を飲みに行って重なり合って人間のダムみたいになっていました。それを見た母が『戦争は嫌だぁ』と叫んだことに、凄くびっくりしたことを覚えています。当時、戦争を批判するということは非国民と言われましたから」

 

福岡原爆被害者の会で活動する岡崎満也さん。長崎市で生まれた岡崎満也さんは、78年前の8月9日、9歳の時に爆心地から3・8キロ離れた場所で被爆しました。しかし、60歳を過ぎるまで人前で被爆体験を話すことができませんでした。

話すうちに落ち込み、やめたくなる

岡崎満也さん(87歳)
「被爆地を横断したんですよ。その時の光景を話すうちに、だんだんだんだん落ち込む。途中で話をやめたくなる時がありました。これでは聞きにきてくれた方にご迷惑をかけるなと」

 

原爆投下後、母と歩いた被爆地の光景を言葉にすることは、とてもつらいことでした。心境に変化があったのは今から20年前、仕事で大阪を訪れた時です。

転機は20年前。阪神淡路大震災の被災者との出会い

岡崎満也さん(87歳)
「大阪に行った時に、阪神淡路大震災の状況を3人の女性がお話されていたんですよ。それをたまたま聞きました。女性が涙ながらにお話しされているのを聞いて、やっぱり人の命は大事だと。私も被爆体験を話したほうがいい、と思いました」

 

このあと岡崎さんは、転勤で移り住んだ福岡で「福岡原爆被害者の会」の会員になりました。以来、若い世代に自らの体験を伝える活動を続けています。

語り部はこの1年で17人から12人に

岡崎満也さん(87歳)
「多くの女子中学生、15歳,16歳の女性が学徒動員され、兵器工場に兵器をつくりに行っていました。その方々がそこで被爆をして長崎市茂里町の川にたくさんの人が浮いていました」

 

「福岡市原爆被害者の会」会員の平均年齢は87歳です。約500人のうち現在、語り部として活動しているのは12人です。精神的な苦痛を伴う「体験を話す」作業ができる人がそもそも少ない上に、高齢を理由に去年は5人の語り部が引退しました。

 

岡崎満也さん(87歳)
「被爆経験者といっても年齢的に限界がありますので、やはり若い方に引き継いでもらってその当時のことをお話していただくのがいいんじゃないかと考えています」

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この記事を書いたひと

土橋奏太

2000年生まれ 長崎県出身

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