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松雄が法廷で証言したこと~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#25

石垣島事件でBC級戦犯に問われた藤中松雄は、横浜軍事法廷で裁かれることになった。最初の取り調べで「自発的に刺した」としていた松雄は、弁護士に「命令で刺した」と内容を翻す陳述書を提出している。そして1948年2月、松雄は被告人として法廷に立った。証言台で松雄が話したのはー。

石垣島事件の裁判日報

横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)


国立公文書館にあった石垣島事件のファイルには、裁判日報があった。松雄が証言台に立ったのは、1948年(昭和23年)2月6日。横浜軍事法廷で裁判が始まって1ヶ月半が経過したころだ。弁護側の証人として出廷している。しかし、この裁判日報は詳細にやりとりが記載されている日と、何があったかを書いただけの日があり、2月6日の記録には、松雄が検事から反対尋問を受けたとだけ書いてあった。

松雄が証言台に立った1948年2月9日

昭和23年2月9日の裁判日報(国立公文書館所蔵)


前回、金曜日だったため、土日をはさんで三日後の2月9日月曜日。裁判は松雄に対する検事の反対尋問から始まった。

<裁判日報>
(藤中)自分が突く前に、その飛行士の右前方、約4メートルのところで、炭床兵曹長が軽く叩くのを見た。北田兵曹長が、炭床兵曹長が定規に使っていた棒で飛行士の腹を一回叩くのを見た。K兵曹が叩くのは1回見た。検事に4.5回と言ったのは、想像でのことで、はっきりした記憶はなかったのだ。

弁護人の補充訊問に対し、藤中被告人はK兵曹が突くのは見ていないと答えた。再び検事の反対尋問に対して、松雄が答える。

(藤中)榎本中尉は甲板士官で、自分は作業員。榎本の指示を受け、作業にあたってきたので、榎本中尉をよく知っている。当時自分は二曹で、刑場にいた私の部下はS上等水兵のみ。刑場に行ったのは午後10時少し前、寝る支度をしていると当直伝令から「下士官兵は皆、当直室前に集合」と言ってきたので当直将校か甲板士官の訓示か達しでもあると思い、一人で行くと「トラック」に14.5名乗っており、外に15名から20名がいたが、前島少尉が「早く乗れ、乗れ」と言ったので乗車した。当時、自分は班長で兵舎に居るのは夜だけで、昼は作業に出てきたので、当時S上等水兵が何をしてきたか知らない。(後で聞くと番兵をしてきた由)自分はS上等水兵に行けと命じはしなかった。

それが正常であるか否か考えなかった

石垣島事件の軍事法廷 (米国立公文書館所蔵)

<裁判日報>
次に松雄は、判決を下す米軍の委員会の訊問に対して、次のように答えた。

(藤中)弁護側と初めて巣鴨で会ったのは、昨年10月中旬である。自分は榎本中尉から突けと直接命令を受けた。炭床兵曹長が軽く、飛行士の股のあたりを1、2回叩くのを見た。「軽く」というのは、炭床兵曹長の動作から判断した。小隊長の今村は処刑に行けとは言わなかった。伝令が来たので、自分が隊長に届けると、「行ってこい」と言われたのみ。当時、処刑についてそれが正常であるか否かは考えなかった。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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