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「調査官からだまされた」法廷での証言に共通していたこと~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#26

数十人の日本兵が、杭に縛られた米兵を銃剣で刺して殺害した石垣島事件。BC級戦犯に問われた藤中松雄が法廷で証言した1948年2月9日。松雄に続いて被告4人が証言台に立った。ほかの2人の米兵を斬首した者も含めて46人もの日本兵が被告とされた事件で、どのような取り調べがされたのかが法廷で語られた。そこに共通していたのはー。

松雄の次に刺突した成迫忠邦上等兵曹

石垣島事件を裁いた横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)


この日、藤中松雄の次に証言台に立ったのは、成迫忠邦上等兵曹だった。成迫上等兵曹は、松雄と一緒に死刑執行された6人のうちの一人だ。成迫の遺書が掲載されている「世紀の遺書」には、プロフィールとして「大分県出身。日本大学出身。昭和二十五年(1950年)四月七日、巣鴨に於て刑死。二十六歳」と書かれている。石垣島事件で3番目に殺害されたロイド兵曹を、松雄が最初に銃剣で刺し、その次に刺突したのが成迫だった。成迫も最初は福岡に呼び出され、調べを受けていた。

「自発的に突いた」「一般命令による」と書け

世紀の遺書(復刻版・講談社)


検事からの反対尋問に成迫が答える。

<裁判日報>
(成迫上等兵曹の法廷での証言)
福岡で藤中が訊問されているのは見なかった。検事側が自分の証拠として提出している陳述書を福岡で書く時、山田通訳から紙と鉛筆を受け取り、問題を出された。これは取り調べ室でも書き、土手町の刑務所内でも書いた。調べられる時、前島少尉、榎本中尉らが法務部内におり、他にも同僚が出入りしたのを憶えている。
この陳述書は自分の手で書いたものだが、「自発的にやった」と書くように強制された。昭和22年(1947年)1月30日の夕方、法務部に行き、夜に訊問があり、突然、飛行士のことを聞かれたので考えていると、私が手を後ろに回しているのが生意気だと言い、襟首をつかみ、首を絞め、何とか云いながら頬を殴った。「自発的に突いた」という点と、榎本中尉の「一般的命令による」という点を強制された。この暴行は自分が一人、2階に呼ばれて調べられた時で、その時、榎本中尉らは階下で控え室にいた。

次に成迫は判決を下す米軍の委員会からの訊問に対して、答弁した。

藤中が突いてから3分位後に突いた

石垣島事件で殺害された3人の米兵(三番目に殺害されたのはロイド兵曹)

(成迫上等兵曹の法廷での証言)
第三の飛行士を突く時、「すでに死んでいた」と述べたのは、別によく調べたわけではない、しかし、自分としては確信している。検事側の証拠で、飛行士が杭に縛られた後、身長の低い人が飛び上がって正面から殴ったとあるのは記憶にあるが、それは炭床兵曹長ではなく、もっと丈の低い人である。又、突く前に誰にも命令されず、自発的に突いたとあるのは間違っている。
別の検事側の証拠にも同趣旨の記載があるが、それは間違いだ。
署名の直前、2月6日の午前9時頃、山田通訳に請求されて答えを書いたものを持っていったが、「自発的と一般命令をかけ」と要求され、それを書くまでは通らず、3,4回理を拒まれ、遂に山田通訳の言うままに付け加えた。英語で陳述書を自ら書いたものはない。
藤中が突いてから3分位後に突いた。

藤中が突くとすぐに死んだと思った

成迫は検事の補充訊問に対し、「自分が突く時、その飛行士が生きているか、死んでいるかは、考えなかった」と答え、委員会の訊問に対して、さらに「藤中が突くとすぐに死んだと思った」と答弁して退席した。

ここは重要なポイントだ。ロイド兵曹を最初に刺した藤中の一撃でロイド兵曹が絶命したとしたら、成迫から後、ロイド兵曹を刺突した兵士たちは死体を突いたということになり、起訴項目にある死体を毀損という点は免れないとしても、殺害したということにはならないはずだ。しかし結果から言うと、41人に死刑が宣告された。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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