今回ご紹介する〈愛すべき福岡の名店〉は、私の大好きなお店の一つ。高宮通りから一本入った路地裏で、ひっそりとした佇まいをみせるカウンター割烹「千翠」です。店名は「松樹千年翠」(しょうじゅせんねんのみどり)という、禅の言葉に由来しています。
表に看板はなく、照明によって浮かび上がる階段がその入口。一歩上るごとに外界から遠ざかってゆく……、そんな不思議な感覚に誘われます。
そして扉を開いた先は、さらに別世界。柿渋塗りの空間に白木のカウンターが映え、6席の特等席が目に飛び込みます。店内は凛とした空気感に包まれながらも、肩肘を張らない絶妙な居心地の良さ。店主・松尾秀樹さんが纏う柔らかな雰囲気がその所以でしょう。カウンターの奥に並ぶ器や道具、古い書物からは、松尾さんの食への造詣の深さやセンスの良さを感じられます。
20歳で料理の道へ飛び込んだという松尾さんですが、意外にもそのスタートはフランス料理でした。熊本のフランス料理店で4年ほど働いた後、“本場の料理や空気感を確かめたい”と、バックパッカーとして単身ヨーロッパへ渡ったと言います。
「約3カ月間、フランス・イタリア・スペインなどを旅しました。でも、そこで思い知らされたんです、自分が日本人であることを。もう、お米が恋しくて恋しくて(笑)。それに、美術館もたくさん巡りましたが、1番心に響いたのはイタリア・ジェノバにある『東洋美術館』でした。そこには日本の甲冑や陶磁器、漆器、浮世絵などもコレクションされていて、これが本当にかっこいい! 海外へ出たことで、日本文化の魅力や価値を再認識でき、自分の日本人としてのアイデンティティに気付くことができました」。
そして帰国後はフレンチから日本料理へ転身し、地元・北九州の日本料理店で研鑽。開業準備期間には長浜鮮魚市場の仲卸店でも経験を積み、2011年、33歳で「千翠」を開きました。
「千翠」で味わえるのは、旬食材の持ち味を自然体かつ丁寧に引き出した外連味のない料理の数々です。福岡をはじめとした九州産の魚介や野菜は、毎朝市場へ出向いて自ら目利き。土地の味を生かし、手を加え過ぎないことを身上に、季節ごと、日ごとのコースを組み立てます。
今回は「おまかせコース」(16,500円・2人~・要前日予約)をいただきました。
この日はなめこの揚げ浸しに始まり、新鮮な魚を目の前で引く3種類のお造り、旬のカボチャを使った一品と続き、さらに秋の名物とも言える「栗とカマス」(写真)が供されました。
塩をあて、余分な水分を抜いたカマスを炭で焼き、水のみで炊いた和栗を添えるという、実にシンプルな一品ですが、これがすごい。カマスへの下ごしらえと火入れは的確で、そこにホロリと重なる素朴な甘味の和栗が絶妙。必要最低限の言葉で世界を紡ぎ、深みや余韻を楽しませる――、まるで俳句のような美しさを感じます。
続いて登場したのは「穴子の蒸し寿司」。ふっくら炊いた煮穴子をサッと炭火で炙り、それを酢飯にのせて軽く蒸し上げた逸品です。穴子の旨味はもちろんのこと、蓋を開けた瞬間に立ち上る柑橘の皮の爽やかさ、穴子の香ばしさ、柔らかな酢飯の香りもたまりません。
さらに「お口直しも兼ねて」と供されたアジも、洗練された美しい味わい。塩で締めたアジは脂の旨味が際立っていて、スダチの搾り汁を和えたみずみずしい梨とおろしたての本ワサビの清涼感が実によく合います。
続くこちらは、流通の少ない珍しいマグロ「コシナガマグロ」に、一瞬だけ薫香を纏わせた一品。あっさりとした中にも特有の旨味と甘味があり、自家製のポン酢とクセのないハーブ・アマランサスが味わいに華を添えます。コースはこの後、炊きたての土鍋ごはん、お漬物などのご飯のお供、味噌汁と続き、季節の水菓子で終幕です。
また、魚や料理のおいしさをさらに引き立ててくれる日本酒(一合1,100円~)は6種類ほどを用意。「特にこだわりはなく、好きなものや季節にあったものを選んでいます」。そう松尾さんは多くを語りませんが、お酒のセレクトもセンスが良くて、ついつい飲み過ぎてしまうことは言うまでもありません。
“うまい魚で日本酒が飲みたい”そんな時は、迷わず「千翠」へ。お店は12時からの営業で、席に余裕があればアラカルトにも対応してくれるのが嬉しい限り。訪問前に電話して席状況を確認する、または“思い立ったが吉日!”で、ふらりと立ち寄ってみるのも一興ですよ。
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