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戦火のパレスチナ~戦前に連なる中国・日本とイスラエルの縁

パレスチナ自治区ガザ、そして隣接するイスラエルが戦争状態にある。ガザを実効支配するイスラム組織、ハマスがイスラエルに大規模な軍事攻撃を仕掛け、これに対してイスラエルは報復の空爆を強化している。国際情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長が、10月12日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で解説した。

中国「われわれはイスラエルとパレスチナの共通の友人」

国連安保理の常任理事国は、ウクライナ問題にしても、対立が続く。今回のハマスとイスラエルの争いを国際社会はどのように、収めていくのだろうか。
 

常任理事国の一つ、中国の外務省は、先に仕掛けたハマスへの直接批判を避けている。今週、アメリカの超党派の議員団が北京を訪れ、習近平主席らと会談した。議員団は戦闘に関連し、中国に対してイスラエル支持を明確にするよう迫ったが、言葉を濁している。
 

かといって、中国がアメリカなどと違って、パレスチナ側に肩入れしているのかというと、そうとは言えない。中国外務省の報道官は「われわれはイスラエルとパレスチナの共通の友人だ」と言っている。
 

確かに中国は1988年にパレスチナが独立を宣言すると、いち早く国家として承認し、支援を続けてきた。日本やアメリカ、イギリスなどはイスラエルを承認し、パレスチナを主権国家として承認していないが、中国は1992年にイスラエルとも国交を結んでいる。
 

このイスラエルと中国の深く、長い結びつきは、実は日本も強く関係している。

旧満州にユダヤ人自治区を作ろうとした「河豚計画」

イスラエルは中国に対し、国交樹立のずっと前から、先進兵器を供与していた。公然の秘密。今日も、中国が国際的にリードしている顔認証システムや、街中にめぐらされた監視カメラのネットワーク、さらにドローンの技術などは、もともとはイスラエルのハイテクだといわれている。そういう意味では軍需産業を柱に、持ちつ持たれつの関係にある。
 

対イスラエルも含めて、中国は中東への影響力拡大を狙っている。今年6月には、パレスチナ自治政府のアッバス議長を北京に招き、習近平主席はパレスチナ問題に積極的に関与する姿勢を示していた。また、今年3月、長く対立を続けてきたイランとサウジアラビアが外交関係を正常化した。それを仲介したのは中国だ。世界をあっと言わせた。
 

話は19世紀にさかのぼる。舞台は、旧満州(現在の中国東北部)のハルピンと上海。上海にはこのころ、財閥を中心にしたユダヤ人コミュニティーが徐々に出来上がっていった。
 

20世紀に入ると、ヨーロッパやロシアで迫害されたユダヤ人が東へ、東へと逃れた。さらにはナチス・ドイツによる虐殺も加わって、大量のユダヤ人難民が中国に流れ込んだ。ハルピンには約2万人、上海にも同じく約2万人のユダヤ人がいた。
 

ハルピンは当時の満洲国。つまり、日本が事実上統治していた。そして、上海はこのころ、旧日本軍が占領していた。そこで、イスラエルと中国の関係に、日本が絡んでくるわけだ。
 

アメリカと戦争を始める前のこと。満洲にいたユダヤ人を、日本の軍や財界は利用しようとした。ユダヤ人社会の財力に目をつけたのだ。これを引き込めば、満洲の開発に大きく役立つ。また、ユダヤ系が影響力を持つアメリカと正面からぶつかることも回避できる、と考えた。
 

欧州を逃れたユダヤ人を満洲に定住させ、ユダヤ人の自治区をつくる――。1930年代には、そんな計画も描いていた。この一連の計画は、「河豚計画」とひそかに呼ばれていた。
 

河豚(フグ)の身は美味しいが、少しでも調理を誤ると、その毒によって命を落としてしまう。同じように、ユダヤ人の満洲受け入れに成功すれば、メリットは大きいが、逆に失敗したら、日本の破滅に結びつく――。河豚計画とは、うまく表現したものだ。

「命のビザ」によって上海にたどり着いたユダヤ人

一方の上海は「命のビザ」、すなわち命令に反してユダヤ人にビザを発給した日本の外交官、杉原千畝(すぎはら・ちうね)さんによって、日本を経由してたどり着いたユダヤ人が少なくなかった。当時、上海はビザがなくても上陸できたため、ユダヤ難民にとっては、安息の地でもあった。
 

上海を占領していた旧日本軍は当初、ここでもアメリカとの関係を改善する方策として、上海のユダヤ人を保護しようとした。しかし、日本の同盟国だったナチス・ドイツは上海のユダヤ人の引き渡しを求めた。ナチスからの圧力との間で、日本は板ばさみになった。
 

日本軍もついに折れ、強制的に住まわせる居住区を上海市内につくり、ユダヤ人をそこに押し込めた。この隔離施設は、日本の妥協策と言えるかもしれない。
 

収容施設とはいえ、周辺に住む上海市民との交流は、比較的自由だったといわれる。ユダヤ難民との間で、食料のやりとりなども行われていたという。
 

ハルピンや上海には今も、その居住区の跡が残る。ハルピンには命を落としたユダヤ人の墓地があり、中国当局によって整備されている。上海にも収容施設だったレンガ造りの住居が、当局によって保存され、ユダヤ難民記念館となっている。
 

つまり、「ユダヤ難民を支援したのは、中国人だった。ハルピンでも上海でも、今日も、その歴史を大切にしている」――と、中国はアピールして、イスラエルとの関係も大切にしたい、というわけか。
 

戦争が終わると、上海のユダヤ難民の多くが新天地を求めてイスラエルに渡り、新しい国づくりに参画した。イスラエルが独立を宣言したのは1948年。今日のパレスチナ問題は、そこから始まったと言える。その意味では、中国も、ユダヤ難民があふれた上海を占領し、満洲を支配した日本も、この問題につながっているように思える。

緊張が緩和した“あの時代”に戻る努力を

ハマスとイスラエルの大規模衝突は今後、事態がさらに悪化するように思える。イスラエルの首相だったイツハク・ラビンという人物がいた。イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)は、ちょうど30年前の1993年、歴史的な暫定自治に合意した。ノルウェーのオスロで、その秘密交渉が行われたため「オスロ合意」と呼ばれる。ラビンはその決断をした首相だった。
 

そのオスロ合意の直後、ラビン首相は中国を訪れ、上海に立ち寄った。その際、かつて上海に在留したユダヤ人が遠い昔に建てた古い教会を見学した。私は当時、上海に長期滞在していて、その様子を見に行ったことを記憶している。中国メディアも「戦争当時、多くの上海市民がユダヤ難民を支援した」と大々的に報道していた。


ラビンはこれら功績が評価されてのちに、ノーベル平和賞を受賞した。しかし、ラビンは和平に反対するユダヤ人青年に暗殺されてしまう。そして、和平への道は断絶されてゆく。


いま、起きている事態を想像すると、ほんのわずかでも緊張が緩和したあの時代に戻る努力を双方、国際社会に願いたい。

◎飯田和郎(いいだ・かずお)
1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。

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