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国家権力に虐殺された伊藤野枝の生きざま~故郷・福岡に詩碑建立の動き

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女性解放運動の先駆者、伊藤野枝(1895~1923年)が日本陸軍の憲兵に虐殺されて101年。命日に合わせ、生まれ故郷の福岡市で追悼のイベントが開かれた。「思い出の地に野枝の詩碑を造ろう」と呼びかける様子を、RKB毎日放送の神戸金史解説委員長が取材、9月17日のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で伝えた。

朝ドラ『虎に翼』よりひと世代前の野枝

NHKの朝ドラ『虎に翼』を面白く見ています。戦前の日本、大日本帝国憲法(1889年公布)下の社会には、今では考えられない女性差別がありました。伊藤野枝の命日の9月16日、弁護士の徳永由華さん(福岡南法律事務所)のお話を聞きました。

野枝と『虎に翼』の時代背景を語る徳永由華弁護士

徳永由華弁護士:公務員になれるのは男性だけですよ。責任がある仕事は男性しかできない。だから男性だけなんです。女性は公務員になれない。だから、NHKの朝ドラ『虎に翼』でも最初、寅ちゃん(主人公の佐田寅子)が裁判官になれない。裁判官は公務員なので、なれないわけです。

公務員に女性はなれない時代。戦後でも、男女雇用機会均等法(1985年)の制定以前、総合職は「男性のみ採用」と限定している場合がありました。こんなことがまかり通っている社会は、本当におかしいですね。

今の憲法では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立」する(第24条)。戦前はそうではなくて、結婚とは家と家とがつながることであり、新郎新婦が結婚当日まで会ったことがないのも、おかしなことではありませんでした。

こんな社会で、女性の地位向上を訴えた先駆者が、福岡市出身の伊藤野枝さんです。『虎に翼』の主人公、寅ちゃん(=佐田寅子)は、設定では1914(大正3年)の生まれでしたが、伊藤野枝さんは1895年(明治28年)の生まれだから19歳年上。ドラマの設定よりひと世代前ですね。

大震災後に虐殺された伊藤野枝たち

女性解放を訴えた伊藤野枝(当時28歳)を、陸軍憲兵隊は1923年の関東大震災後の大混乱に乗じて虐殺してしまいました。一緒に殺されたのは内縁の夫であった無政府主義者・大杉栄(38歳)と、たまたま一緒にいた甥、橘宗一ちゃん(6歳)です。この3人が憲兵隊によって殺害される、というとんでもない事件なのです。

伊藤野枝と大杉栄のパネル

伊藤野枝さんが生まれたのは、福岡県糸島郡今宿村(現・福岡市西区今宿)の貧しい家でした。学問に秀でていたので、伯父の支援で東京の女学校に進みましたが、卒業直前に17歳で古里で結婚を強制され、すぐに出奔して再び東京に向かいました。そして、日本で初めての女性文芸誌『青鞜』の2代目編集長となりました。「自由恋愛」、恋愛は家に妨げられるものではなく自由だ、と主張しました。当時は、社会とは全く異質な主張だったはずです。

14歳の伊藤野枝(右)=矢野寬治さん提供

野枝さんの墓は今宿の墓地にあったのですが、移転。墓石だった石は、故郷・今宿の山の中に静かに安置されています。

「伊藤野枝メモリアル2024」

命日の9月16日、生まれた福岡市西区今宿で「伊藤野枝メモリアル2024」が開催されました。クロストークでは司会の桂仁徳さんが、こんな評価をしています。

伊藤野枝について語り合う

桂仁徳さん:野枝さんがよく言っていた、「習俗打破」というすごいパンチの効いた言葉があります。

「あゝ、習俗打破! 習俗打破! それより他には私達のすくはれる途(みち)はない。呪ひ封じ込まれたるいたましい婦人の生活よ! 私達は何時までも何時迄もぢっと耐えてはいられない」(『青鞜』1915年2月号)

桂さん:この、野枝さんが言う「習俗打破」。因習というのは、当時の慣行とか習慣とか空気とか、さらに言えば、今で言うところの無意識の偏見。そういったものも含んでいると思います。

「習俗打破」、因習・慣習に縛られない自由な生き方を求めた伊藤野枝さん。2023年9月、「伊藤野枝100年フェスティバル」が開催され、全国から人が集まりました。その様子は、この番組で紹介しました。その時、神田紅さんの新作講談『野枝物語』を紹介しました。日本講談協会の会長で講談界の第一人者、修猷館高校卒業の福岡県人です。

殺害されて100「わきまえなかった女」伊藤野枝に改めて注目する(2023919日)

「時代は変わった」野枝を高校文化祭で紹介

今年は神田さんに加え、現役の修猷館高校の生徒も参加しました。歴史の授業で伊藤野枝を知り、文化祭で採り上げたのだそうです。

神田紅さんの後輩、修猷館高校の生徒も参加

修猷館高2年 林龍之介さん:(先生が)大正時代を扱う時に、すごく熱く野枝さんのことが語られていたのが印象的で、「もっといろいろな人に伝えていけないか」ということで、文化祭でやろうということに、クラスでなりました。

林龍之介さん:劇みたいなものを交えてながらやっていて、糸島から東京に野枝さんが上京していく時の話で、実際に家族の反対を振り切って東京へ上京していく中で、参加者の人たちが大正の時代にタイムスリップしたような形のものを目指して、目の前で劇をしながら、「東京に行くんだ」と野枝さんが言っているのを、謎解きをしながら野枝さんを手伝っていき、「参加型の脱出ゲーム」のようなものをしました。

神田紅さん:伊藤野枝という人は、自分も覚悟を決めながら、もうそのつど悩みながら、進んでいった。後輩の修猷館の生徒さんたちが、その伊藤野枝を扱ってくださって、「かっこいいんじゃないの」とみんなが賛成した。感心いたしました。私や桂さんの時代は、そんな女性が主人公になるような物語は、なかなか取り上げられなかったんですが、時代が変わりました。

 
野枝の講談に取り組む神田紅さん

伊藤野枝さんの謎解きをしながらの「参加型の脱出ゲーム」。すごいと思いましたね。修猷館高校の卒業生と現役の生徒との会話が成り立っていたので、時代を超えて伊藤野枝がつながっているな、とうれしくなりました。


 

野枝17歳の鮮烈なデビュー作『東の渚』

林龍之介さんは17歳。同じ17歳で野枝さんが書いた詩、『東の渚』は、雑誌『青鞜』でのデビュー作です。その詩が会場で読み上げられました。朗読したのは俳優の大國千緒奈さんです。

野枝のデビュー作『東の渚』を朗読する大國千緒奈さん

『東の渚』 伊藤野枝

東の磯の離れ岩、
その褐色の岩の背に、
今日もとまつたケエツブロウよ、
何故にお前はそのやうに
かなしい声してお泣きやる。(中略)

ケエツブロウとは、海鳥のカイツブリを指す、福岡の方言です。ケエツブロウに寄せて、自分の心情を語っているのです。

死んでおしまひ!その岩の上で――
お前が死ねば私も死ぬよ
どうせ死ぬならケエツブロウよ
かなしお前とあの渦巻へ――
(『青鞜』1912年11月号)

古里に拘束されてしまう、17歳の心。結婚制度にも拘束されてしまう自分たちの世代、女性の気持ちが、ケエツブロウに寄せて書かれたものだと思います。

「100年早かった女」野枝の詩碑を古里に

生まれた今宿の海岸から東を眺めると、長垂(ながたれ)公園があります。国道202号が海岸端を走る時、きれいな岩場が見えます。福岡市に住んでいる人にとっては、馴染み深い地形ですね。この『東の渚』という詩を、これから活かせないか、という話が会場で出てきました。

神田紅さん:ケイツブロウの詩は、野枝が出奔してしまう一番苦しい時期です。もう死んでしまう、と。ケイツブロウのように、渦巻きの中に自分の身を投げ入れようか、という詩なんです。いや、待てよ…「まだ何かやれることがあるんじゃないか」という希望を持って再び東京に出ていって、たくさん子供を産んでいろいろな偉業を成し遂げていく、本当に一番苦しいときの詩でございます。

神田紅さん:私にとっては長垂海水浴場ですけど、今は公園になっている、そこに詩碑を建てたら、これからの女性のためにも、世界のためにも、私にとっても希望の場所となるのではないか。ご協力のほど、よろしくお願いいたします。

詩碑建立の動きが始まった

長垂の海浜公園に詩碑を建てよう。野枝さんのデビュー作『東の渚』にふさわしいと思いました。墓石は山の中に置かれていて行くのもなかなか大変なので、古里の近くで「100年早く生まれた」と言われた伊藤野枝を、これから100年後にかけてもしのんでいく場所として、『東の渚』の詩碑を造ろう、というのがイベントの趣旨だったのです。

まだ動き出したばかりで具体的な計画はないですが、「伊藤野枝100年プロジェクト」というインスタグラムなどで、これからいろいろな情報が出てくると思います。伊藤野枝の詩碑建設が、動き出しました。

「伊藤野枝100年プロジェクト」
Itounoe2024@gmail.com
070-9180-4168(伊藤信之)


 

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この記事を書いたひと

神戸金史

報道局解説委員長

1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。