「谷村新司は音楽史の傑物」音楽プロデューサー・松尾潔がラジオで追悼
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10月8日、谷村新司さんが亡くなった。29歳のときに山口百恵さんに「いい日旅立ち」を提供した早熟の才能を、音楽プロデューサー・松尾潔さんは10月23日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で「音楽史の傑物」と評した。
年間303本のライブ
先週、訃報が届いた谷村新司さんの功績を振り返ります。谷村さんは1948年(昭和23年)12月大阪生まれ。当時のいわゆる関西フォークのムーブメントに乗り、高校生のときにロック・キャンディーズを結成しました。フォークの代表的なグループ、ピーター・ポール&マリーと同じ、男性2人女性1人という構成でした。
1960年代に10代で世に出ますが、すぐに全国的な人気になったわけではありません。1970年に大阪万博が行われたとき、そこで出会ったスタッフや、同世代のミュージシャンたちとの交流が、その後の谷村新司さんを作り上げていったと言われています。
谷村さんは1971年に堀内孝雄さんとアリスを結成して、翌年にドラムのキンちゃんこと矢沢透さんが加入して3人組になり、72年にデビューします。しばらく鳴かず飛ばずの時期が続いて、1975年「今はもうだれも」でやっとヒットが出るんですが、それまではただひたすらライブをやり続けていました。
今はもうだれも/アリス
どれぐらいライブやっていたか。僕は1990年代に、ある雑誌の対談で谷村さんからそのときのことを聞かせていただいたことあるんですが、一番多い年には1年間で303本ライブをやったそうです。
社運を賭けた奇策のライブで大借金
なんでそんなにライブをやっていたか。きっかけは当時の所属事務所ヤングジャパンの細川社長の奇策でした。ヤングジャパンはソウルミュージック界の大物で帝王とも言われているジェームス・ブラウンの初来日コンサートを1970年の頭に企画しました。ところが、昔から名門ホールとして知られていた3000人弱ぐらい入る大阪のフェスティバルホールに、谷村さんによれば、客が150人しか入らなかったそうです。
事務所の窮余の一策で、社運をかけてやったライブで大借金。「雪だるま式に増えて、もう僕らがライブをやるしかなかったんよね」と話していました。でもそれが「最強のライブバンド」という定評を作っていって、「今はもうだれも」のヒットが出たときには、もう日本中の音楽好きやラジオ業界にシンパがたくさんいました。
その後は、「冬の稲妻」や「ジョニーの子守唄」、そして「チャンピオン」。こういった曲が次々にヒットして、78年には日本武道館3日間公演を成功させて、当時のニューミュージックシーンの頂点に立つんですね。
31歳の若さで「昴」をリリース
ここですでにキャリアを極めたと言ってもいいアリスなんですが、ここから谷村さんのアーティスト生命はさらに花開いていきました。それはソロ活動の充実振りなんです。作家としても山口百恵さんに「いい日旅立ち」を提供したように、彼は作品をつくる力、特に言葉の力を持った方でした。
アリス時代も「チャンピオン」の作曲もしていますが、作詞:谷村新司、作曲:堀内孝雄のゴールデンコンビがやはり彼らの肝になっていました。それをより体現するために、ソロという形式が向いていたようなところがあります。
それがよりパーソナルな度合いの高い、思いをつづった歌詞として結実したのが、1980年の「昴」です。曲の寿命とか愛され度合い、そしてタイムレスな輝きってことを考えると、ちょっと格別のステージに駆け上がっていくことになるんですね。
これを作って歌ったときの谷村さんが31歳。驚くべき早熟な才能というか、成熟したアートを生み出した人だったんだなと思います。僕はよくこういう言い方をするのですが、タイムリーでありながらタイムレスなとこにも手が届くという、本当に稀有な曲だと思いますね。
「いい日旅立ち」は谷村新司29歳、山口百恵19歳
谷村新司さんは言葉の力が長けた方だと言いました。もちろん歌手としても、類まれなる美声と歌唱力を持っていましたが、やはり作品を作る能力が突出していたなということでいうと、まず挙げられるのが山口百恵さんに提供した「いい日旅立ち」です。
いい日旅立ち/山口百恵
この曲を聴くと、JR西日本の「DISCOVER WEST」シリーズの車内チャイム思い出す方も多いんじゃないでしょうか。今だに愛されているメロディーとも言えますね。作曲も谷村さんが手がけています。驚くべきこととして伝えたいのが、これを作ったときの谷村さんはまだ20代、歌った百恵さんがまだ10代だったというところです。
19歳の百恵さんに29歳の谷村さんが曲を提供して、老若男女を唸らせるという、そんなふうに日本のポップミュージックのシーンが若くして成熟していたときがあったんですね。今どきの19歳や29歳の人たちと比べると、ずいぶん大人っぽい表現だったな思います。
突出した「文学性」
この頃、谷村新司さんとさだまさしさんの2人は突出していて、文学性の高い表現で、かつポピュラリティを獲得したという印象が僕にはあります。その2人が「いい日旅立ち」と「秋桜」をそれぞれ山口百恵さんという器に提供したというのが、のちに山口百恵さんの神格化につながっていったと思うんです。
例えば今、桑田佳祐さんも歌詞の中に文語調の言葉を取り入れたりしますよね。あれって僕からすると、桑田さんよりも前に谷村新司がいた、というイメージがあります。それこそ代表曲の「昴」の歌い出しは、“目を閉じて何も見えず、悲しくて目を開ければ、荒野に向かう道より、他に見えるものはなし”。
本当に格調高いんですが、この歌詞は石川啄木の「悲しき玩具」の“眼め閉とづれど、心にうかぶ何もなし。さびしくも、また、眼をあけるかな”との類似点をよく指摘されています。実際に谷村さんも「啄木は学生時代から好きでした」と言っています。
そういった、言葉を咀嚼して自分の表現にして世に出すという、再構築とかエディトリアルとか、ポストモダンと言われるような考え方、発想法ですね。それが谷村さんには身についていたのかなと思いますし、インプットとなる教養が豊かだからこそあれだけの表現も続けられたのかなという気がします。
J-POPの普遍の要素をすべて備える
僕は谷村さんと直接じっくりとお話したのは1990年代の1回限りですが、それからずいぶん時間が経って、2012年に谷村さんと僕で1曲ずつ坂本冬美さんに提供してダブルリードシングルを作ったことあるんです。今考えると、過分なオファーをいただいたんですが、そのとき谷村さんが書き下ろしたのが「人時」という曲です。
この曲を聴くと、「いい日旅立ち」を作った谷村さんにその面影を求めて、いろんな曲のオーダーがずっと続いていたんだということがよくわかります。この曲でモチーフになっているのは、「旅立ち」や「駅」、あとは「家族」とか「人と人との絆」。
およそ我々がJ-POPに時代を超えて求める不変の要素を谷村さんは若いときから全て備えていて、それにちゃんと時代ごとの微調整を加えながら、需要に応えてきたのだと思います。
そんな中でもやはり「いい日旅立ち」以降の代表曲といえば、彼が40代のときに加山雄三さんと一緒につくった「サライ」でしょう。
サライ/加山雄三・谷村新司
枯淡の境地を見せてほしかった
彼の74歳という生涯は、早熟とか、老成したとか言われたアーティストの人生としては、やっぱりちょっと短い。もっともっと長く歌って、枯れてゆく感じを我々にかっこよく見せてくれると嬉しかったなと思います。
枯淡の境地、という古い言葉がありますが、そういうものをこれから見せてくれるだろうと思っていたので、本当に残念で仕方がないです。それでも、よく言われることですが、曲は残ります。芸術は永遠ですから。
彼はたくさん曲を出していて、四季折々の曲があるので、例えば今の季節なら「秋止符」。秋が終わるときに曲の終わりにかけて寄せた、思いの終焉を描いた曲ですね。その時々に合う曲をたくさん残しているので、これから僕も折に触れて谷村さんの曲を聴きたいと思います。本当に音楽史の傑物でした。
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