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墜落の瞬間が撮影されていた!米軍資料が語る石垣島事件~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#12

海に墜落した瞬間をとらえた写真

3人が搭乗していたグラマン機が墜落した瞬間をとらえた写真。海上に雲のように煙が上がっている(米国立公文書館所蔵)

 

ジェームスさんから届いたのは、アメリカの国立公文書館に収蔵されている戦闘詳報だった。それによると、1945年4月15日、空母マカッサルストレイトから編隊を組んで飛び立ったグラマンTBMアベンジャーのうちの一機が、日本軍からの対空砲撃を受けて海に墜落した。このグラマン機には、パイロットのティボ中尉、砲撃担当のタグル兵曹、通信担当のロイド兵曹の3人が搭乗していた。写真の裏にあるキャプションには、「まさに撃ち落とされた瞬間をとらえた」とある。海上に雲のように煙が上がっている。陸地側に滑走路と道路で三角形に見えるのは、陸軍白保飛行場だ。3人は墜落前に脱出し、パラシュートで降下。大浜海岸の沖に降りたというところまで米軍は把握していた。

行方不明になった3人・・捕らえられて石垣島警備隊へ

米軍資料 3人は「行方不明」(米国立公文書館所蔵)※赤字はRKBで読みやすく加工したもの

 

しかし、米軍の救助は間に合わなかった。資料には3人の名前の記載があるが、「作戦中に行方不明」となっている。海に浸かっていた3人は捕らえられ、石垣島警備隊へ連行された。そして訊問を受けたあと、最後の夜を迎えた。

(10月20日公開のエピソード13に続く)
*本エピソードは第12話です。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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