先日、「焼とりの八兵衛」を展開している「株式会社hachibei crew」と「鳥貴族」などを展開する「株式会社エターナルホスピタリティグループ」と大阪でミシュランの星を獲得している「焼鳥 市松」を展開する「有限会社AO」が、協業によりこれから5年間で「焼とりの八兵衛」を100店舗を目標に出店を進めていくと発表しました。
そんな福岡、いや日本の焼鳥界を代表する「焼とりの八兵衛」が糸島で開業してから福岡、東京、海外と進出していくお話が「福岡グルメトリビア~ン」(2020年聞平堂発行)に掲載されていますので、以下に転載します。
今でこそ、デートや女子会、あるいは接待でも使われるようになった焼鳥店。その昔、昭和の時代は焼鳥店といえば、女性客は男性上司に連れてこられた部下ぐらいで、基本的にはオジサンたちが集まる世界だった。安い串をつまみながら、安い酒をあおる。タバコは周りに遠慮することなくスパスパと吸う。2000円も出せば大満足なオジサンたちの憩いの場だった。
福岡でその焼鳥店の〝オジサン世界〟を変えたのが「焼とりの八兵衛」だ。
糸島市前原で昭和初期から精肉店を営んでいた「肉のやしま」(現HACHIBEI CREW)。その目利きと捌きの技術を生かして1983年7月に店の一角で焼鳥店をオープンする。それが今や世界進出を果たしている「焼とりの八兵衛」の創業だ。
精肉店が経営している焼鳥店というブランド、さらにはいち早くメニューに組み込んだチューハイのブームも後押ししてオープンからすぐに繁盛店の仲間入りを果たす。このまま順調に右肩あがりをキープできれば何の問題もなかったのだが、やはり落とし穴が待っていた。
「僕がラクしようって考えてしまったんです。焼き台の炭をガスに変えたり。店にもあまり立たなくなってしまって。気が付いたら周りにはウチよりも安い競合店がたくさんできて、お客様を持っていかれてしまったんです」
今も代表を務める八島且典さんは、その当時、店主として心を入れ替えて一生懸命、〝一串入魂〟で3年間頑張った。だが、いったん離れてしまったお客をなかなか呼び戻すことができなかった。
「洋食居酒屋にでも業態変更しようかと、知人のフレンチやイタリアンのシェフにいろいろ学んでやっとフルコースがつくれるようになったんです。そのときにあるシェフに洋食居酒屋の夢を語ったら『洋食をなめてもらっては困ります。こっちは十代のころからこの世界で生きてきたんです。八島さん、あなたには焼鳥の世界があるじゃないですか』と言われました。目が覚めましたね」
一念発起、培った技術を活かした焼鳥と創作料理の二本柱で経営を立て直す。そして創業から17年経った2000年に、夢でもあった天神エリアへの出店を果たす。前原本店に続く2店舗目、福岡市中央区今泉に22坪40席の天神店をオープン。当時の繁盛店で向かいのビルに移った海鮮居酒屋「がんばらんば」の居抜き物件だった。
「正直、甘く見ていましたね。当時流行っていたカウンター大皿料理と焼鳥の二本柱で勝負したんですが閑古鳥が鳴きまくって。かといって肝を冷やしてばかりもいられない。全国の繁盛店から学び、たくさんの飲食経営者に教えを請い、女性客ターゲットの経営戦略に切り替えたんです」
洋食を基礎から学んだ初の調理専門学校卒の人材が加入した。キッチンは彼に、焼き台は八島さんが仕切るスタイルが生まれる。串はもちろん、サラダ、デザート、カクテルなどこれまでにはない女性客を意識したメニューを増やした。その日のオススメメニューは、墨文字と朱文字の筆書きで演出する。
店づくりでいえば、焼き上がりのおいしさを追求すると同時に煙の臭いが服につかない独自の吸排気システムを設えた。木製のカウンターに囲まれたオープンキッチン。落ち着いた間接照明とこきみよいリズムを奏でるジャズが洗練された空間に華を添える。モダンな純白のコック服に身を包んだ威勢のいい若い男性スタッフが立つ。
彼らには女性客をリピートさせる接客術を指南した。リピート客には当時メニューにはなかった「えんどう豆の串揚げ」「和牛すき焼き串」など、今は「八兵衛」の代表格ともいえる創作串を特別にサービスしていたという。やがて、女性客が8割、最高月商は1400万円を弾き出す店にまで成長した。
「3店舗目となる上人橋通り店の出店が、『くずし懐石』と『焼鳥』と『ワイン』という今の八兵衛スタイルを生むきっかけになりました。出店コストはかなり嵩みましたが、建築デザイナーの江里先生(※1)に感謝です。高級感のある空間と設えに恥ずかしくないものを提供するために、料理はもちろん接客、サービスにみんなで研鑽を重ねたことで『八兵衛』の今があると思います」
女性客にターゲットを絞った「八兵衛」の新たな「博多焼鳥」のスタイルは、地元の同業者に強いインパクトを与えた。2008年12月には東京・六本木に進出。その名を一気に知らしめる。その「八兵衛」に追随するかのように、東京でも「博多焼鳥」と銘を打った、女性客が集まる人気店が増えた。今、地元の福岡では「八兵衛」から独立した弟子たち(※2)が次々と繁盛店をつくりあげている。
その昔、豚骨ラーメンといえばオジサンたちの食べ物だったように、キャベツに酢ダレと豚バラという博多焼鳥もオジサンたちの食べ物だった。豚骨ラーメンの〝オジサン世界〟を変えたのは「一風堂」、博多焼鳥の〝オジサン世界〟を変えたのは「八兵衛」である。
この2つのブランドが海を渡る日が来るとは、2店舗の〝昭和〟を知るオジサンたちはその当時、想像すらしなかっただろう。
※※1 福岡を代表する建築家・江里好継氏。「近松」「田無羅」「IMURI」「万魚」「レザン・ドール」「茅乃舎」などたくさんの高級店の建築プロデュースを手がけた。2008年没。
※2「やきとり稲田」「焼とりのとりこ」「やきとり弥七」「焼き鳥の軍ぞう」「やきとり六三四」「焼とりいぶし坐」「焼き鳥のあんど」「百式」など、弟子たちが経営するほとんどの店は繁盛している。
チカラ(栗田真二郎)
飲食店のブランディングやマーケティングにかかわる「キッチン」代表。執筆集団「チカラ」のクリエイティブディレクター/ブランディングライター/でぶグルメライター。
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