文豪・開高健がこよなく愛した土地で、伝説の巨大イワナの子孫を釣ってやろうというわけだ
伝説の巨大イワナの子孫を釣ってやろう
コロナの後遺症が酷い。胃をやられた。人によって違うらしいが、私はインフルエンザより辛かった。気分は落ちたままで、仕事が山ほどあるのに、やる気が起きない。こういうときは抗わない方がいいとも聞くが、このまま、うだうだしているのも癪に障る。体は動くのだ。
そこで私はのっそり起き上がると、釣具とキャンプ道具をクルマに詰め込んだ。巨大イワナ伝説を求めて、ちょっとした冒険をしようと思い立ったのだ。そうすれば少しは気が晴れるかもしれない。
東京からおよそ3時間。関越自動車道・小出インターを降りて、魚沼のスーパーで食材を仕入れる。魚沼と言えばお米だ。相変わらずしくしくと胃痛がするが、食い意地だけは健在のようだ。水や食料、それから氷をクーラーボックスに放り込み、国道352号線を走る。すぐに奥深い峰が見えた。
私が向かうのは、越後駒ケ岳・荒沢岳といった2000メートル級の山々に囲まれた絶景の秘境、銀山平である。平成の中頃まで新潟県北魚沼郡と呼ばれた一帯で(現在は魚沼市)、文豪・開高健がこよなく愛した土地である。
この地で開高健が釣り上げた伝説の巨大イワナの子孫を釣ってやろうというわけだ。
国道はいつしかクルマ一台通れるだけの心細い峠道になっていた。なんとなく嫌な予感がする。私の場合、嫌なことは得てして当たるのだ。
「この先、がけ崩れで通行止め」
ほらきた。こんな狭い峠道でどうやって転回しろというのだ。しかもこちらは小回りの効かない大きな四駆だぞ。だが、私の顔はニヤついている。冒険は始まっているのだ。
転回に成功するも、Google Mapは何度も引き返せと言う。これしかルートがないと。いや、銀山平へは奥只見シルバーラインがあるだろう。名前は爽やかだが、魔窟のようなトンネルの続く悪路が。Googleはそれでも元の道へ戻れとしつこい。はじめての人なら不安のあまり諦めるかもしれない。
27年前、開高健に感化された私は釣り竿を携え、この路を通って銀山平へ行ったのだ。
国道から逸れ、古びたゲートをくぐって山道を進むと、いかにも寂しげなトンネルが頼りない口をぽかりと開いて待ち構えていた。
もとは奥只見ダム(銀山湖)建設のために作られた坑道である。なので一般道とは趣きがまるで違う。もはや洞窟と言ったほうがいい暗黒の穴を延々と登り続ける。奥只見シルバーラインは、全長22kmのうち18kmがトンネルなのだ。
ワイパーを作動させなければ前が見えないほど、天井から地下水が流れ続けている。やがてトンネル内に霧が立ち込め、さらに視界が悪くなった。気味が悪い。出口は永遠に現れないのではと不安になる。
スマホの電波はとっくの前から圏外になっていた。ヘッドライトに浮かび上がる、ごつごつとした岩肌がより不気味さを醸し出している。とてつもない時間が経ったと感じられたが、やがてトンネル内の分岐点に出くわした。ウインカーを出してステアリングを右に切る。
久しぶりに太陽の光が見えた。すぐに原始から続くブナの森、その中を悠々と流れる北ノ又川が私を出迎えてくれた。新潟の奥深い山にありながら、北米や欧州の穏やかな丘陵地を連想させる北ノ又川の美しさは、モンタナのマジソンリバーにも負けてはいない。
そう、ここが開高健の愛した銀山平である
基本的に、どんな山奥でも不意に人の生活と出会うことができるが、この土地にはその気配すらない。小さな看板を頼りに、沢へ向かう路地に入り、やがて目的のキャンプ場に到着した。今の季節はどこもかしこも満杯なのに閑散としている。まだ日本にもこのような場所はあるのだ。
しかも、場内にはとても奇麗な温泉施設まであった。あらゆるものに手が行き届き、美しく整備されている。素晴らしい。キャンプ場で受付と同時に入漁券を買う。私が「釣れますかねえ」と尋ねると、テキパキと仕事をこなす受付の御姐さんは腕をポンポンと叩いて笑った。
「お客さん次第ですよ」分かっていらっしゃる。来てよかった。
冷たい空気が清々しい。コロナ罹患後は酷く疲れやすくなったが、気持ちが昂ぶっているからか、いつもより手早く寝床を設営できた。念のためにタープも張った。夏の山の天気は急変するからだ。
準備は整った。私はフライロッドをケースから取り出し、ウエーダーを履き、クルマで石抱橋を目指した。
開高健の石碑がある場所だ。
私が開高健と出会ったのは中学3年生のころ。そのとき週刊プレイボーイに連載されていたのは「風に訊け」だったと思う。いや、「知的な痴的な教養講座」だったか。記憶が曖昧で申し訳ない。痴的好奇心がお盛んな私は、もともとグラビア目的で週刊プレイボーイを買い求めていたのだが、この頃の週刊プレはエッセイや記事がとにかく面白く、硬派であり、軟派であり、既成概念につばを吐き続け、新しい価値観を提案する勢いがあった。私にとって一石二鳥の実用書というべきか。
そのなかでも群を抜いていたのが開高健だった。
氏のエッセイは、父親のいなかった私に男の作法や世界の広さ、そこに住む人間の生き様を教えてくれた。
開高健がアラスカならばと、私はモンタナの巨大トラウトを狙った
釣りに興味を持ったのは、開高健の「フィッシュ・オン」「私の釣魚大全」「オーパ」の影響だった。
当時、貧しかった私には、世界中を釣りして旅をする彼の姿が輝いて見えた。いつか自分もそんな大人になりたいと憧れた。やがて大人になった私がフライフィッシングを嗜むようになったのは、開高健はルアーフィッシングだったので、そこまで真似するのはつまらないと思ったからだ。
そして、開高健がアラスカならばと、私はモンタナの巨大トラウトを狙った。
「本当にラッキーボーイだな」
現地のフィッシングガイドが苦笑したほど、モンタナでは天が私に味方した。イエローストーンの釣具店で私の記念写真が飾られるほどのビッグワンを手にしたのだ。その数日後、町の安ホテルで朝食をとっていたら、ウエイターから「見たぜ、あの写真。今シーズンナンバーワンを仕留めたのはお前さんだってな」とウインクされた。
余談だが、ネイティブスピーカーは釣れた瞬間にフィッシュ・オン!とは叫ばない。いまも日本のテレビ番組などで釣り師やナレーターが「フィッシュ・オン!」なんて言っている。私もその一人だったが、アメリカ人のフィッシングガイドにたしなめられた。「釣れた瞬間はストライクと言うんだ。ストライクのあと、糸がピンと貼っていたらフィッシュ・オンだ」
このジョンという名のガイドとは、言語的意思疎通の難しさからボートの上で大喧嘩をした。彼は自分の指示の真逆のことをする私に激怒し(私の耳ではwrongとlongの区別がつかなかった)、私は私で「てめえ、英語が話せるからって威張るんじゃねえよ!」などと日本語で意味不明なことを叫びながら暴れた。その後、彼の経営するレストランで死ぬほど夕飯をご馳走してもらった。
話が逸れすぎた。
フライフィッシングの聖地で、ナンバーワンのブラウントラウトを仕留めるという輝かしい栄光を手に入れようとも、私には大きな心残りがあった。じつは、開高健ゆかりの銀山平で、まだ一匹どころか、かすりもしてないのだ。
にもかかわらず、気がつくと私は人生の釣りの大半を山梨の渓で過ごし、新潟まで足を伸ばせずにいた。いつか行こうと思いながらも。いつか、いつかとお茶を濁しているうちは、いつかはやってこないのだ。ジョン・フォガティも歌っているじゃないか。Someday never comesと。
そこで、27年ぶりにリベンジを果たそうと思い立ったのである。
1995年に私が石抱橋の上から撮った北ノ又川の写真が、書斎の本棚で眠る開高健の「フィッシュ・オン」に挟まっていた。
その景色がいま、私の前に広がっている。この橋から上流は永年禁漁区である。改めて眺める北ノ又川は、期待を裏切らなかった。27年前となにも変わってはいなかった。山の形、森の形さえも。変わったのはすっかりオッサンになった私だけだ。
橋の上から何気なく流れを覗いた私は息を呑んだ。淵に巨大な魚影がいくつも見える。
石砲橋から上流は長年禁漁エリアだが、運の良いことに、この淵はエリア外だ。急いで川に降りようとして三度も転倒した。コロナの後遺症なのか老いなのか、ここはあまり考えないでおこう。なんとか橋の下へたどり着くと、対岸に仙人のような風体の老人がルアーを飛ばしていた。
「釣れますか?」と尋ねると、「釣れる」と無愛想に答えた。
「邪魔にならないようにしますので、近くで糸を出してもいいですか?」と尋ねると、仙人は破顔一笑、「ええよ」と頷いてくれた。
本来、渓流は先行者がいれば諦めて別のポイントへ移動するか、下流に行くか、一声かけて数百メートル上流を狙うのがマナーだ。広い場所ならば今回のように相談してもよい。基本的に釣り師は教えたがりなので、いろいろ尋ねると応えてくれる。
仙人が尺ほどの鱒を釣り上げた。
「イワナですか?」
「ニジだよ。放流モンだな」
私は気を取り直して竿を振り続けた。
いつの間にか、仙人の姿は消えていた。一方で私の毛鉤にはまるでアタリがこない。水面に浮かしても、沈めても、ことごとく駄目。また今回も銀山平を克服できないのか。
しかも相手は伝説のイワナでなく、虹鱒だ。難攻不落の山梨・忍野でも私は軽々と虹鱒を釣った。桂川水系だけでなく、他の水系でもネイティブのイワナやアマゴを幾度も仕留めた。
私は歴戦の魚たちに勝利してきたのだ…それでも銀山平は私を認めてくれないのか。
雲行きが怪しくなってきた。体力もずいぶん削られた。すっかり疲れた私は崖を這い上がった。すると、さきほどの仙人がゆっくりと煙草を吸いながら帰り支度をしていた。
「釣れたかい?」
「駄目です。私の毛鉤には反応さえしません。完敗です。ハハ」
私も煙草に火をつけ、橋の上からぼんやり北ノ又川の流れを眺めた。紫煙が胃に染みる。大粒の雨がぽつりと落ちてきた。やがて豪雨になった。
タープを立てておいてよかった。横殴りの雨の中、キャンプ場に戻った私はまるで我が家に帰ってきたような安心感に包まれた。併設の温泉で疲れと汗を流した私は、薪に火をつけて、夕飯を作ることにした。
焚き火で炊いた魚沼の米は甘くて美味しかったが、胃が受け付けない。食事はあきらめ、雨音を聴きながら焚き火をながめた。十分な準備があれば雨の日のキャンプは焚き火もできるし、居心地も良い。
私のスマホは圏外なので何もすることがない。焚き火に飽きたら、口笛を吹きながら眠くなるまで釣具の手入れをした。なんと贅沢な暇つぶしだろう。
夜が更け、すっかり肌寒くなった。テントに潜り込んだ私は毛布をかぶった。夏キャンプは虫や人がたくさんいて閉口するが、毛布だけで眠れるのはいい。私は身動きが制限される寝袋が苦手なのだ。ちなみに、このアメリカ製の毛布は薄くて軽いのに保温力が高く、実際、厳冬期にもシュラフの中に詰め込んで使用している。私は気持ちよく眠りに落ちた。
夜中もずっと豪雨が続いた。雨風の音で何度か目が覚めた。この調子では、明日は雨があがっても川は増水しているだろう。釣りは無理だとあきらめた。胃も痛むので早めに帰ろうと思った。
翌朝は晴天だった。
私のキャンプサイトは北ノ又川の下流域(銀山湖)へ流れ込む沢の土手にある。寝ぼけ眼のまま何気なく沢を覗いて驚いた。あれだけの大雨にもかかわらず、増水の痕跡はなく、川はクリアウォーターだった。これがブナの森の強さなのか。さすが銀山平。
水が濁っていなければ、雨上がりの早朝は黄金の時間だ。私は寝間着のまま大慌てでウエーダーを履き、テントに立てかけておいたロッドを手に沢へ降りた。今度は転倒しなかった。
清々しい青空の下、こうして竿を振るだけでも幸せだ、などと敗者の言い訳など吐くつもりはない。私は慎重に、何度も何度も毛鉤を流した。このチャンスを逃してたまるか。お手製の毛鉤であるエルクヘア・カディスに願いを込める。頼むぞ。エルク(北米に棲む鹿の仲間)の堅い毛で編んだこの毛鉤は、魚たちにはいろいろな虫に見えるようだ。どの季節、どの川でも通用するから重宝している。
狭い川では広いところを、広い川では狭いところを狙うのが鉄則だが、狭い川の狭い場所を私は狙う。毛鉤が狙った流れに着水した直後、水面が破裂した。ドライフライ(水面に浮かべる毛鉤)の醍醐味は、魚が水中から飛びだし、餌を奪う瞬間を見られることに尽きる。
ストライク、フィッシュ・オン!
竿と糸を通して魚の生命が振動として伝わってくる。
私は胸を高鳴らせながら、左手で腰に装着していたランディングネット(たも網)を取り出した。激しく水面が沸騰した。
I got it!!! ついにやったぞ。私の勝ちだ!
ところが。
現れたのは、伝説の巨大イワナには程遠い、無駄に威勢の良いおチビなイワナだった。私は思わず大笑いした。
それでも、ようやく開高健が釣り上げたイワナの子孫を手にしたことには間違いない。濡らした手で魚をそっと包み込み、川へ戻す。
「ありがとう。伝説の巨大イワナに育っておくれ」
「ケッ、酷い目に遭わせやがって」
おチビさんは勢いよく流れの向こうへ消えていった。
私はついに乗り越えた。リベンジを果たした。青空が眩しい。雲外蒼天とはこのことだね。なぬ、そんな小さなイワナごときで大げさだと?
いいかい。魚の大小ではないのだよ。私は壮大な物語を手にしたのさ。27年越しのね。
釣果はこの一匹だけだったが満足だった。昼前に寝床を撤収した私は、キャンプ場を去るときに御姐さんに「また来ますね!」と言った。御姐さんはいつまでも手を振ってくれた。
あれほど長く感じたトンネルはあっという間に過ぎゆき、私は下界に戻った。得も言われぬ寂しさに襲われた。車の窓を開けると、今が真夏だったことを思い出した。
追記。
それから私は胃痛がさらに酷くなり、渓で転んだせいで全身筋肉痛になった。家人からは「何をしにいったのか意味がわからない」と呆れられた。
世の釣り師に伝えたい名言がある。
”釣り竿とは一方に釣り針を、もう一方の端に馬鹿者をつけた棒である”
サミュエル・ジョンソン(18世紀の英国の文学者)
これはわたしたちだけの秘密にしておこうじゃないか。
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