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九州を代表するフレンチ「Goh」が西中洲で過ごした20年【1/3】

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10月17日、福岡を代表するレストラン、西中洲の「La Maison de la Nature Goh」(以下「Goh」)が20周年、つまり人にたとえると成人と同時に生誕の地、西中洲での営業を終了しました。もちろんこれは前向きな閉幕で、12月1日にはキャナルシティ博多前で開業する「010 BUILDING」で、新たなチャレンジが始まります。
2002年に18席の小さな店として誕生してから、その地を離れとてつもない飛躍を遂げるまでの20年について福山剛シェフに話を聞きました。

西中洲の物件の決め手は番地だった

弓削(以下「弓」) 福山さんは高校を卒業してすぐ天神にあった「イル・ド・フランス」に入って7年ほど修業した後、当時中洲にあった「マーキュリーカフェ」に入りましたよね。独立前に働いたのはその2軒ですか。
福山(以下「福」) そうですね。「マーキュリーカフェ」には6年ほどお世話になりましたが、途中で中洲から薬院の今「デル・チェーロ」がある物件に移転したんです。
弓 「マーキュリーカフェ」を辞めてわずか1カ月半で「Goh」を開店しましたが、開業準備は大変でしたか?
福 元々「深く考えない」「どうにかなるさ」という楽観的な性格なのであまり苦労したという記憶はないんですよ。「マーキュリーカフェ」を辞めたのが2002年8月末でしたが、それから設計に取りかかり、居抜きで借りた店を解体してもらい、左官業をやってた親父の知り合いの工務店の方々に店を作っていただきました。オープンは10月17日ですから、今考えるとぞっとするスケジュールです。でもそのときは何も知らない強さといいますか、知らないがゆえに恐怖感もなかったんです。

弓削(以下「弓」) 福山さんは高校を卒業してすぐ天神にあった「イル・ド・フランス」に入って7年ほど修業した後、当時中洲にあった「マーキュリーカフェ」に入りましたよね。独立前に働いたのはその2軒ですか。
福山(以下「福」) そうですね。「マーキュリーカフェ」には6年ほどお世話になりましたが、途中で中洲から薬院の今「デル・チェーロ」がある物件に移転したんです。
 「マーキュリーカフェ」を辞めてわずか1カ月半で「Goh」を開店しましたが、開業準備は大変でしたか?
 元々「深く考えない」「どうにかなるさ」という楽観的な性格なのであまり苦労したという記憶はないんですよ。「マーキュリーカフェ」を辞めたのが2002年8月末でしたが、それから設計に取りかかり、居抜きで借りた店を解体してもらい、左官業をやってた親父の知り合いの工務店の方々に店を作っていただきました。オープンは10月17日ですから、今考えるとぞっとするスケジュールです。でもそのときは何も知らない強さといいますか、知らないがゆえに恐怖感もなかったんです。

Goh入口

 20年以上前というと、西中洲も今とは随分違っていて、天神と中洲にはさまれたディープゾーンと言いますか、料亭やクラブなどが建ち並んでいて、人は歩いてないし、店も街も閉鎖的でかなり特殊な街でしたが、元々西中洲でやりたいと思っていたのですか。
 自分が住んでいたこともある南天神エリアの渡辺通5丁目あたりをなんとなくイメージしていました。渡辺通り以西の今泉や薬院よりは、春吉と渡辺通りの間の路地裏がいいなと思っていました。西中洲は当時アングラ感が強かったのでまったく考えていませんでした。ところがそんなとき、「マーキュリーカフェ」のオーナー満生(みついき)さん(現在は西中洲で「MERCURY RIVER GRILL」を経営)が教えてくれたのがあの物件だったんです。 結局、内見したのはそこだけでした。
 まったく考えていなかった西中洲の物件に決めたのはどうしてだったんですか。
 当初20坪くらいで探していたので、14坪というのはイメージしていたより狭かったんですけど、家賃がすごく安かったこと、そして雰囲気のいい路地の突き当たりというシチュエーション、さらには番地が「西中洲2-26」で2月26日生まれのぼくの誕生日と同じというので「ここだ!」と思ったんですよ。
 当時の西中洲はぼくも大好きでした。ちょうどその頃10年くらいはけっこう頻繁に来ていたのですが、好きな店も少しずつ減っていって、最近は以前ほど来ていません。
 ぼくが店を出したときには高級クラブ「みつばち」はもうありませんでしたが、「サパークラブ太宰」があったり、「弥生」とか「きくしげ」といった料亭もありました。そうそう「吉塚うなぎ」もあったんですよね。いずれにしても、当時は30そこそこの自分たちが行ける店はほとんどないというイメージでしたね。
 そんな自分のなじみのない街に自分の店を出すことに不安はなかったのですか。
 「マーキュリーカフェ」で毎日お客さんと話をして、中洲のお客さんのことも知ったし、西中洲なら当時のお客さんも来やすいのではないかとも考えました。また、正統派のフレンチレストランから、中洲のカジュアルな店、さらに同じ業態でも広さも客層もまったく違う薬院で経験させてもらったのは、独立した後の自分の仕事に随分役立ちました。
 特にどういう点が役に立ちましたか。
 「イル・ド・フランス」ではキッチンの中で料理を作り、きれいに食べられたお皿がキッチンに帰ってきたらおいしいと思ってもらえたんだと理解していましたが、「マーキュリーカフェ」のように小さくて料理しながらお客さん全員の顔がみえるところだと、同じ完食でも食べるスピードや表情によって、料理の実際の満足度は全然違うということがわかってきました。そして本当にいろいろなお客さんと対峙してコミュニケーションしながら料理を作っていくうちに、福岡で飲食をやって生き残る術がなんとなくわかった気がします。

以上、前編。 【中編に続く】

弓削聞平(ゆげ ぶんぺい) UMAGA編集長
福岡在住フリーエディター。当時「シティ情報ふくおか」を発行していたプランニング秀巧社を経て、2001 年より福岡とグルメをテーマにフリーエディターとして活動。福岡のグルメ雑誌「epi」「ソワニエ」の元編集長。 個人事務所「聞平堂」では「ぐる~り糸島」「福岡 気軽で楽しい町の寿司屋」「私、この店、大好きなんです。」等を出版。RKBラジオ「オトナビゲーション」内「本日のユゲ押し」に出演中。インスタID:bunpei_yuge

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