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九州を代表するフレンチ「Goh」が西中洲で過ごした20年【2/3】

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10月17日、福岡を代表するレストラン、西中洲の「La Maison de la Nature Goh」(以下「Goh」)が20周年、つまり人にたとえると成人すると同時に生誕の地、西中洲での営業を終了しました。もちろんこれは前向きな閉幕で、12月1日にはキャナルシティ博多前で開業する「010 BUILDING」で、新たなチャレンジが始まります。
2002年に18席の小さな店として誕生してから、成人するとともにその地を離れとてつもない飛躍を遂げるまでの20年について福山剛シェフに話を聞きました。

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流行り続ける店にするには十分なスタッフ体制を

弓 入口を開けると目の前に調理しているシェフがいるというレイアウトも珍しいですよね。これはどんな意図があったんですか。
福 実は基礎があの部分だけ上がっているという構造上の理由もあるのですが、「マーキュリーカフェ」の経験もあって、お客さんを見ながら調理したいとは思っていたんです。ただ、よくあるオープンキッチンのようにお客さんの目の前で作っていると、話しかけられたりして集中できなかったり作業がストップしたりもします。それは避けたいので、入口近くに自分の定位置を置けば、来られるお客さん、帰られるお客さんにもあいさつできていいなって思ったんです。
弓 簡単に言いますけど、これなかなか斬新なアイデアですね。
福 料理をしながらお客さんと話したいという料理人の方もたくさんいますけど、信じてもらえないかもしれませんがぼく意外とシャイなんですよ。だから、お客さんと面と向かって調理していつも見られているとなんだか集中できないというのもありました。

Goh店内

弓 当時は何人体制でしたか。
福 社員としてサービススタッフと和食出身の調理スタッフがいて、もう一人洗い場などをやってくれるアルバイトという、ぼくを入れて4人体制でした。3人でもやれないことはなかったかもしれないんですけど、人が辞めるとか病気になったというときに店ができるだけブレないようにしておきたかったんです。それに福岡の人は料理の味だけじゃなくてサービスにもシビアなので、ギリギリでやるとちょっとしたことでお客さんの満足度が下がるんです。営業時間中でも電話に対応できて、料理もスムーズに出し、的確にお皿を下げて、お客さんの要望にも応えていくには、この人数が必要でしたね。
ギリギリでやると逆に売り上げは伸びなくて、十分な人員配置でお客さんにストレスを与えないようにしないと流行り続けることはないということを、懇意にさせてもらってる「くーた」や「ShinShin」をみていて学びました。何かアクシデントがあったときにも対応できる保険をかけておくことが大切だと思うんです。
弓 なるほど~。大事なことですね。ところで最初はどういうメニューでしたっけ?

Goh開店当初のメニュー

福 今回、片付けをしてたら昔のメニューが出てきたんですよ。これはオープンして3年くらい経った頃のものですけど、オープン時も大体こんな感じでした。
弓 こうしてみるとアラカルトメインで、コースは端っこにちょこっと載ってるだけですね。
福 そうですね。でも口頭でコースをお勧めしていたので、8割くらいはコースのお客様でした。
弓 値段もけっこう長いこと5000円でしたよね。
福 2016年に「アジアベストレストラン50」に選ばれるまではずっと5000円です。

姉妹店「Goh助」「grenier」「quenelle」

弓 「Goh」はオープン以来満席じゃなかった日はないという都市伝説的な話がありますが、本当のところどうなんですか。
福 ははは。そんな話があるんですか。実際はオープンしてすぐは満席ではなかったりもしました。半月後くらいにKBCテレビの「チャリンコグルメ」という人気コーナーで取り上げていただいたのですが、それからは俄然お客さんが増えました。
弓 ぼくがやってた「epi」じゃなかったのが残念です(笑)。
福 「epi」や「ソワニエ」にもお世話になりました(笑)。
弓 無理に言わせちゃいましたね。
福 テレビに出していただいてからは年に1、2日満席じゃない日があるくらいでしたね。
弓 店を広げたのはいつでしたっけ。
福 2015年ですね。それより前に一度隣が空いたことがあるのですが、そのときは悩んだ末に借りなかったんです。しかし、次に空いたとき、「隣は借金してでも借りた方がいい」と誰かに背中を押されたんです。最初の店はカウンター6席テーブル12席の18席でしたが、隣を借りて個室を作り34席になりました。
弓 席数は倍くらいになったのに、変わらず満席?
福 おかげさまで。2016年に「アジアベストレストラン50」で31位に選んでいただいたこともあって、コロナ前まではほぼ満席のご予約をいただいてました。
弓 「アジアベストレストラン50」の話はまた後でお聞きしますが、店を広くする前、大楠に「Goh助」を出しましたよね。ぼくも週に1、2度通ってました。
福 あの店は、たまたま大楠の古いアパート(正確には社員寮)の物件を月3万円で借りられるという話を聞いて、忠助くん(当時人気だった寿司店「忠助」のオーナー松本忠助氏)と、3万円ならなにか一緒にしたいねという話になったんです。何をやるか考えてるとき、当時大名にあったフレンチでアルバイトをしていた佳奈(渡辺佳奈、旧姓上田)と知り合って、彼女にやってもらえたらいいねということになりました。なので、あれは物件ありき、佳奈ありきなんですよ。
弓 確かに彼女はいいコで、彼女に惹かれて男女問わずいろんな方が集ってましたね。ぼくも週に1、2度行ってて、あそこでいろんな方と知り合いました。美人で大酒呑みの常連がたくさんいて、楽しい思い出がいっぱいあります(笑)。
福 そうですね。でもやってたのは2年くらいです。その後彼女がうちのスタッフと結婚してフランスに行くことになったので閉ることにしました。
(編集部注:その夫婦は今、湯布院で「La Verveine」というフレンチレストランをやってます)
弓 そしてその後に入ったのが「ヒラコンシェ」の平子さんですよね。出世部屋ですね~。

Goh助店内 「Goh助」

弓 「Goh」の隣の隣、今、ワインバーの「OPIUM」の場所で「Le grenier de Goh」を始めたのはその後でしたか?
福 そうですね。2009年くらいでしょうか。店名は「Gohの屋根裏部屋」という意味で、イベリコ豚や仔羊などの串焼きとポトフを出していました。料理人によって味があまり変わらない料理を出したかったんです。
弓 ぼくも時々お邪魔してました。「Goh」と違って(笑)こちらは予約しなくてもふらっと寄れましたし、気軽にワインバー的に利用できましたから2軒目に立ち寄らせてもらうことが多かったです。
福 2012年くらいにその店を「quenelle(クネル)」に変えて、「Goh」で働いた後、半年くらい渡仏していた桑野誠二が帰ってきたのと、「Goh」を手伝ってくれていた出島麻樹子(現在「L’ami」オーナーシェフ)にやってもらいました。こちらはフランスのクラッシックなビストロというイメージだったんです。なので、このタイミングで「Goh」はアラカルトをやめてコースのみにして棲み分けをしました。それにしても、あの狭くて劣悪な環境のキッチンで、2人ともよく頑張って料理を作ってくれたと思いますよ。
弓 確かにあれは狭かったですね。福山さんはあのキッチンには入りませんね(笑)。それにしてもぼくは、ビストロなのにワインバー利用ばかりしててすみませんでした(笑)。22時くらいにふらっと行くと、「Goh」がひと段落して、福山さんが「quenelle」の方に顔を出してくれて、そこでいろんな業界情報を教えてもらい、随分雑誌の仕事に活用させてもらいました。
福 休憩に行ってただけですよ(笑)。
弓 でも「Goh」のお客さんが帰るときにはスタッフが呼びに来て、すぐ戻って、必ず「Goh」恒例のお見送りをしてましたね。今、「Goh」のように表で姿が見えなくなるまでお見送りする店も増えましたけど、あれってもちろん以前からやってたところもあるでしょうけど、「Goh」をみてやり始めた店も少なくないと思います。

3/3 最終回】に続く

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この記事を書いたひと

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