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台湾2・28事件で父親が犠牲になった日本人男性が語る平和への想い

1947年、台湾で住民に対し当局による大虐殺事件が起きた。2月28日が発端なので「2・28事件」と呼ばれている。日本ではあまり知られていないこの事件について、東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長が、父親がこの事件で犠牲になったという人物の声を交えながら解説した。  

「反共産党」理由に国民党が住民弾圧を続けた2・28事件

最初に事件が起きたのは台北の中心街。1947年2月27日夜、街頭でヤミたばこを売っていた女性を警察が摘発。警察官は売りもののたばこや、売上金を没収した。それだけではなく、警官は「許してくれ」と懇願する女性を、殴りつけた。周囲にはたくさんの市民がいたが、これが発端となり、台湾住民の間にうっ積していた国民党政府への不満が爆発した。翌28日には、当局側が抗議のデモ隊に発砲。死者が出たこともあり、住民による抵抗が台湾全土に広がった。国民党トップの蒋介石は中国本土から鎮圧軍隊を送り込み、徹底弾圧を続けた。

 

武力による鎮圧後も、台湾では1949年から1987年まで実に38年間、世界最長といわれる戒厳令が敷かれていた。この間に連れ去られ、行方不明のままの知識人、学者らもいる。台湾社会に深い傷あとを今も残しており、事件に触れること自体が長い間、タブーとされた。

 

なぜ、このような住民弾圧が起きたのか?太平洋戦争後、台湾では日本の統治時代から住む人たちと、内戦で劣勢になった蒋介石とともに大陸から渡ってきた人たちの二つのグループの間で対立があった。事件の背景には、新しい支配者=国民党の腐敗や横暴がひどく、それに対する住民の怒りが募っていた。しかし当の国民党は「共産党勢力が事件を陰で操っている」と理由づけた。内戦の相手・共産党の力が台湾でも増していけば、劣勢の自分たちはいよいよ追い込まれる――。国民党政権は住民への弾圧と自らの「反共産党」を結びつけたのだ。

日本人12人も犠牲に~父親の足跡をたどった男性

台湾の政府公式見解では、犠牲者は1万8000人から2万8000人とされているが、詳しい死者数は今もわかっていない。実は犠牲になったのは台湾人だけではなく、この中には当時、台湾にいた日本人も12人いた。

 

その日本人犠牲者のうちの1人は、沖縄県在住の青山恵昭さん(78)の父親だった。青山さんは、鹿児島・与論島出身の父親と沖縄県出身の母親の間に、日本統治時代の台湾の北部で生まれた。青山さんが生まれてわずか数か月後、父親は徴兵によってインドシナ半島へ出征。終戦後、父親は復員し、鹿児島の親類宅に身を寄せていたが、台湾に残る妻や息子に会おうと、密航の形で渡った。

 

ところが、妻と息子(つまり、青山さん)は引揚船に乗って、日本へ帰還しており、入れ違いになってしまった。やがて、息子の青山さんを連れ、故郷の沖縄に戻った母親は、台湾で父親と一緒にいた親類から証言を得る。その親類によると青山さんの父親は「国民党の兵隊に捕らわれて連れて行かれた。おそらく殺(や)られたのだろう」という。1947年の3月のことだった。

 

のちにこの話を聞いた青山さんは「父は2・28事件に巻き込まれた」と確信する。青山さんは図書館に通い、2・28事件を調べたのを手始めに、父の足跡、つまり台湾での日々だけではなく、そこに至るまでの九州各地を訪ね歩いた。そして昨年秋「蓬莱の海へ 台湾二・二八事件 失踪した父と家族の軌跡」を出版。「蓬莱」とは台湾の別の呼び名だ。

 

その過程で、青山さんは台湾側に対し「父は2・28事件の被害者である」との認定と損害賠償を求め、2016年に勝訴している。青山さんがこつこつ集めた証言や資料が決め手になり、外国人で初めて事件の犠牲者として損害賠償が認められた。青山さんは、息子の成長を見ずに亡くなった父の生涯に、自分なりに区切りをつけたわけだ。

内戦の余波で日本人にも悲劇~75年の節目に聞く平和への想い

青山さんは、沖縄と台湾を重ね合わせてもいる。たとえば1970年に現在の沖縄市で発生したコザ暴動。アメリカの軍人が起こした交通事故で住民がけがをしたが、米軍側の事故対応への不満をきっかけに、住民が米軍車両を焼き討ちした事件だ。青山さんは事件の現場に居合わせていたという。

コザ騒動、私も現場にいたんですけども、台湾での2・28事件とそっくりだなと思いました。どちらも路上での事件であること、また権力者への不満から民衆が立ち上がったこと。韓国の光州事件(1980年)もそうでしょう。
今年は2・28年から75年という節目の年。台湾と日本の関係は、かつてないほど良好と言われる。そういう中での悲しい事件をどうとらえるべきか?青山さんは平和への思いをこう語っている。

台湾有事とか、敵基地攻撃能力とか、おそろしい言葉が行き交っているが、武力衝突とかそういうものを煽るのではなく、問題は外交で解決すべきだと考えています。そういう意味でも2・28事件とは何だったのか、ということを振り返る中から、国際的な紛争が起きないよう、未来志向で考えていかなければと思います。
国民党と共産党の内戦の余波でもある台湾での2・28事件。その中で、日本人も巻き込まれて犠牲になり、家族の人生を狂わせた。日本人は台湾にとてもいいイメージを持っているが、その台湾でこうした悲劇が起きていたことを忘れずにいたい。

 

飯田和郎(いいだ・かずお) 1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。

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