今も日本経済の生命線である「オイルロード」。その歴史を語る上で、70年前の1953年に出光佐三が世界を驚かせた「日章丸事件」は重要な意味を持つ。出光佐三がモデルのベストセラー『海賊とよばれた男』(百田尚樹著)でも、ハイライトの一つとして描かれている。10回シリーズの最終回。(2013年8月30日~同年10月12日に同乗取材)
戦勝国の圧力に屈せず
出光グループのタンカー:日章丸が世界を驚かせてから60年が経つ。
出光興産の創業者:出光佐三氏が決断した「日章丸事件」だ。
敗戦から8年後の1953年、当時の二代目・日章丸は、戦勝国イギリスの圧力に屈することなく、イランの原油を日本へと運んだ。
石油メジャーへの挑戦
「日章丸事件」として語られる、この歴史的な出来事は、当時、世界の原油を支配していた石油メジャーへの挑戦でもあっただけに、多くの日本人に敗戦の苦しみから立ち上がる力と勇気を与えた。
「日章丸事件」乗組員に聞く
現在の五代目となる日章丸の乗組員に、日章丸事件について聞いた。
佐々木機関長「積み荷もそうですし、何も保障されていない中で、よくもあそこまで、イランのアバダンまで行って原油を積んで日本に帰ってきたと思いますね。怖かったと思いますよ。当時、船が座礁しかけたという話がありますよね、機関長も船長も大変だったと思いますよ」
“国民のためになることを”
松本船長「当時の新田船長はすごく厳しい船長だったと、記録には書いてある反面、乗組員から嫌われているようなことは全くありませんし、信頼されていました。だからこそ、行き先がアバダンに変わっても、どの乗組員からも苦情も出ずにみんな一致団結して乗り切れたと思うんですよね。やはり、国民のためになることをするんだという精神なんじゃないかなと思いますね」
44日間で約2万5000キロ
今回の日章丸・同乗取材も終わりに近づいた。
RKB久間直樹「44日ぶりに東京湾に戻ってきました。ペルシャ湾沿岸の産油国と日本とを結ぶオイルロード、日章丸が往復した距離はおよそ2万5000キロに達します。」
原油を満杯にした日章丸の船底は今、水面下20メートルにある。6階建てのビルを抱えた状態で帰りは航行してきた。
変わらぬ“原油の重要性”
日本に輸入される原油の8割以上(83% 2012年)を、ペルシャ湾沿いの産油国が占める。シェール革命など、エネルギーをめぐる環境は大きく変化し始めているが、原油の重要性は変わっていない。日章丸はきょうも、オイルロードを行く。
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