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「自分自身の“素顔”を報道する」一人称報道の条件と覚悟

新聞や放送の記者が、自分や家族を取材の対象として取材する「一人称報道」というスタイルがある。長男が自閉症や知的障害などがある、RKB毎日放送の神戸金史解説委員長も、やまゆり園障害者殺傷事件の加害者に「私の子供も殺すのですか?」と質問を重ね、「セルフ・ドキュメンタリー」の番組を制作してきた。こうした“一人称の報道”の実例をRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で伝えた。

自分自身を「取材対象」とする報道

新聞や放送の記者が、自分や家族を取材の対象として取材する、いわゆる「一人称報道」というスタイルがあります。私が、障害を持つ長男を取材した番組などもそれに該当します。


こうした1人称の報道をしてきた3人が集まって、それぞれどんなことを考えてきたかを報告する勉強会が9月21日、宮崎市で開かれました。「マスコミ倫理懇談会」全国大会の分科会で、私も発表したんですが、他の2人についてご紹介したいと思います。
 

(200人を超える参加者が集まったマスコミ倫理懇談会の全国大会)

マスコミ倫理懇談会全国協議会 「マスコミ倫理の向上と言論・表現の自由の確保」を目的として、1955(昭和30)年3月に東京で創設され、各地の懇談会が全国協議会を結成した。現在は新聞、放送、出版、映画、レコード、広告など210の企業・団体が会員となり、秋には全国大会を開き、各地区では月例会や総会を開いて事例研究や情報交換を行っている。

宮崎で先週開かれた65回全国大会にはリアルで200人以上、オンラインも入れると300人が参加。「南海トラフ巨大地震への備えと報道」「南西諸島有事とメディア」「新たな人権報道への試み」など6つの分科会が設けられ、活発な議論が展開された。

「私は部落から逃げてきた」西日本新聞

西日本新聞社(本社・福岡市)社会部の西田昌矢記者は、いわゆる被差別部落に生まれ、なるべくそのことを考えないようにして生きていた。去年4月、『記者28歳 「私は部落から逃げてきた」』(全8回)という連載を書き、大きな反響を集めました。
 

(西日本新聞西田記者の発表資料)

連載の中では、小学生の時に友達のお祖母さんから「部落の子なのに賢いね」と言われ大きなショックを受けたこと、自分の出自から逃げることばかりを考えていた青春時代のこと。社内研修では「部落問題って知っとるか」と上司から問われ、とっさに「単に地区って意味じゃないんですね」ととぼけたことがあることなどが赤裸々に書かれていました。

「安全地帯から出て書いてみたい」

西日本新聞は人権について非常に取り組みが深い会社です。2022年は、全国水平社の設立100年に当たる年でした。その4年前に、すでに社内で準備が始まっていたそうです。

「4年後にどの部署にいても、なにかやったらどうか」という話が出て、西田記者は「やりたいです。実は部落の出身なので」とポロっと言ったのだそうです。「じゃ君の話で書いてみたらどうか」ということになり、それから4年間をかけて考えてきた、とおっしゃっていました。


長崎での勤務で、被爆者が自分の被爆体験を語っているのを聞く時に、「部落出身の自分は、部落のことを語っていないのではないか」ということも考えるようになっています。それを、西田さんは「安全地帯」と表現しています。

西田昌矢さん:安全地帯にいることにすごく後ろめたさを感じていたのですが、4年間の間に「安全地帯から出て書いてみたい」「被爆者と同じ目線で自分の名前を出して記事を書きたい」という思いが強かったです。4年間という時間があったから、そう思えたのではないかなと思います。

(西日本新聞西田記者の発表を真剣に聞く参加者)

どうしたらいいかじっくり考える一定の時間が持てた、ということなんだろうなと報告を聞いて考えていました。今年4月には「記者29歳 続「私は部落から逃げてきた」』という連載も書いています。

「ワンピースを着て、街へ出た」朝日新聞

もう一人の方は、朝日新聞東京本社文化部の平岡春人記者。「体験を記事にすること」というテーマで話しました。実は平岡さん、ワンピースを着て会場に来ました。「ワンピースを着て、街に出た」という連載記事を書いた方です。自分の性の問題について、ずっと悩んでいたと語っています。
 

(分科会の会場で朝日新聞の平岡記者)

(以下、2023年4月26日、朝日新聞連載第1回「男性として生きてきたけれど…伝えたい、ワンピースを着て見えた世界」より)

声変わりや体の成長は、思春期の私には受け入れ難い現実であった。声変わりに気づいた夜、自分の部屋で泣いた。

だが、私は自分を「女性」だと信じられなかった。

小学生の初恋の相手は「女の子」だった。周りの「女の子」が身につけていたピンク色のものに興味はなかった。

「私は何なのだろうか」

社内にセーフティスペースができた

性の問題は、男と女の単純な2つではなくて、もっとグラデーションに富んだものではないかとこのコーナーでもしたことがあります。実際にワンピースを着て会場に来た平岡さんの話を聞いていると、改めてそういうふうに思いました。

平岡春人さん:縁もゆかりもない札幌で、たまたま出会った友達に人生初のカミングアウトをします。その人とワンピースを買いに行き、家の中で着て、鏡を見て、「ああ、どうしてこんな簡単なことに25年もかかったのだろう」「戻れないな」と思いました。その日、インスタに自分のワンピース姿を挙げて、友達全員が知ることになります。

どこかにずっと「記者の目」があります。どういう記事がいい記事なのだろうとか、こういう記事はどうだろうと考えているとか。街を歩いている自分に向いてしまいました。その時に、「あ、伝わるな…」と何となく思いました。

平岡さん:直属のデスクと仲がよくて、よく飲んで音楽とか本の話をしたりする中で、人権についていろいろ聞かされ、言わば私の人権感覚を育ててくれた方。初めてワンピースを着た時から3日くらい立った夜に、「実は…」という話をしたら、すんなりと。相当頭の中には葛藤があったでしょうけど、丁寧な言葉を選んでくださって。社内にセーフティスペースができたのは極めて大きかった。しかも、それが直属の上司。

平岡さん:西日本新聞の西田さんが「直前まで一部の人にしかお伝えしていなかった」とおっしゃっていましたけど、私も、11月に初めて企画書を出すのですが、掲載は4月。3月まで、私と上司以外、この記事のことを知っている人は社内にいませんでした。それは、私がいつでも取り下げられるようにという配慮のもとです。

連載を中止することも想定に

西日本新聞でも朝日新聞でも、記者の極めてプライベートな問題を連載することは、直前まで関係者以外には知らされていなかった、ということです。西日本新聞でも、西田記者が悩んで「止める」と言ってきたときにすぐ対応できるように、「連載の途中であっても、中断する覚悟があった」とおっしゃっていました。


非常にセンシティブな問題なので、「どう取り上げるか」について、いろいろな配慮をしていることが両社の特徴でした。


平岡さんは今、文化部で放送を担当しています。取材にはワンピースを着て行って、テレビ局の社長などにインタビューをしていますが、今まで「なぜその格好をしているの?」と聞かれたことはない、ということです。「恵まれた環境でもあるな」とも思いました。

一人称報道が「許される場合」とは

対立する意見があれば、双方から声を聞いて、客観的に報道することが、ジャーナリズムの原則です。こうした一人称の主観報道が許されるのは、自分でなければ報道できないことがある時ではないでしょうか。


私は障害者の父親の立場で、「津久井やまゆり園」障害者殺傷事件の加害者に「私の長男も殺すのですか?」と質問しました。これは私にしかできないことだろう、と踏み切ったわけです。


こうした一人称報道を可能にするのは、信頼できる上司や同僚の存在。あとは時間。「やれ」と言われて書くのではない。自分の中で「やらなければいけない」と本当に思えるまでの時間、覚悟を決める時間が必要なのかな、と思いました。


分科会で私は「特殊な人が、特殊な場面だけでできる報道」と考えないでほしい、と言いました。自分の会社で書きたい人が出てきた時に「動揺せずにしっかりと受け止める立場になっていただけたら」と話しました。
 

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この記事を書いたひと

神戸金史

報道局解説委員長

1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。