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公明党委員長を20年間務めた竹入義勝さん逝去・日中国交正常化にも貢献

飯田和郎

20年間にわたって、公明党の委員長を務めた元衆議院議員、竹入義勝さん(97)が12月23日、亡くなった。中国への訪問を重ね、日中国交正常化にも貢献したという竹入さんの功績について、東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長が12月28日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で解説した。

「水を飲む時は、井戸を掘った人の苦労を思い出せ」

年の瀬が迫ってくると、この1年間で亡くなった方々の顔を、思い出す。家族、お世話になった人…。もちろん、だれもが知っている著名人もいるだろう。私も今年「この人のような新聞記者になりたい」と思い手本にしてきた先輩を病気で失った。きょうは、死去がつい先日伝わってきた、ある方の話をしたい。

20年間にわたって、公明党の委員長を務めた元衆議院議員、竹入義勝さんが12月23日、肺炎のため福岡市内の病院で亡くなった。97歳だった。竹入さんは、公明党が衆議院に進出した1967年1月の総選挙で初当選。翌2月、41歳の若さで、公明党の第3代委員長になった。連続8回当選し、1986年12月に、委員長を退任するまで、公明党の一時代を築いた。また、竹入さんは、中国への訪問を重ね、日中国交正常化にも貢献した。

竹入さんは、公明党の党勢を拡大させた、だけにではなく、中国との国交正常化にもひと役買った。中国には「水を飲む時は、井戸を掘った人の苦労を思い出せ」という、ことわざがある。先人の努力に感謝しようという意味だ。「あの時、竹入さんの、あの動きがなければ、国交正常化にはさらに長い時間がかかったかもしれない」と思ってしまう場面がある。

田中角栄内閣発足直後の「非公式のパイプ」

第二次大戦のあと、中国大陸では内戦に勝った共産党によって1949年10月、中華人民共和国が成立した。内戦に敗れた国民党は台湾に逃れて、台湾で中華民国を継続させた。一方の日本は、1951年9月、サンフランシスコ講和会議を経て主権を回復した。合わせて、日米安全保障条約を締結した。

日本の戦後外交は、完全にアメリカが基軸となっていく。アメリカの冷戦戦略に日本は組み込まれた。その日本はアメリカとともに、台湾に存在する中華民国政府を支持した。1952年4月、両国間の戦争状態を終了させる条約(=日華平和条約)に調印した。

ただ、国際社会の中では、台湾ではなく、中国を国連に加盟させるべき、という動きが加速していった。1970年代に入ると、アメリカも中国との関係改善に動き出す。日本国内にも「中国と国交正常化を」という声が高まっていくが、一方で「これまでどおり、台湾との関係を損なってはならない」という勢力も自民党内にはあった。そういう状況の中で、1972年7月、田中角栄氏が自民党総裁・総理大臣になった。

田中角栄氏は、自民党の総裁選挙では「中国との国交を正常化する」と公約したが、それは総裁選に勝つための道具でもあった。「失敗したら、自分のマイナスになる」と、総理大臣になると、前向きな姿勢は後退した。

そこで、公明党の竹入委員長の出番となった。外交関係のない国同士の場合、政府ではなく、非公式のパイプが機能することがある。そのパイプの一つが竹入さんだった。公明党は当時、野党。野党も独自外交を進めていた。竹入さんが2回目の中国訪問をしたのは、1972年7月25日。田中内閣誕生から2週間あまりしか経っていない。

周恩来の回答に「からだが震えた」

竹入委員長は、当時の中国首相、周恩来と北京で3日間連続して会談した。中国側も、田中内閣誕生を、国交正常化のチャンスだと認識して、真剣に、竹入さんと向き合った。日本側が前提条件にしていたのは、二つ。一つは「日米安保体制を容認すること」。もう一つは「中国が日本に対して賠償請求を放棄すること。その確約がほしい」――。

先述したとおり、日本の外交はアメリカと行動をともにすることが基軸だ。そのための日米安保体制がある。賠償請求ついては、戦争の間、日本は中国大陸で多くの人命や財産を奪ったという、歴史の事実がある。

この条件に対し、周恩来は言った。「日米安保条約には触れません」「賠償請求権も放棄します。毛沢東主席も了解している」。つまり、日本と中国の間で、国交を正常化する時に共同声明をつくる。その中には「日米安保体制には言及しない」「日本に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」――。そう確約すると、周恩来は言い切った。

中央大学教授の服部龍二教授の著書に『日中国交正常化』という本がある。賠償請求を放棄すると言った周恩来の言葉を聞いた竹入さんが、当時を回想している。

「500億ドル程度、払わなければいけないかと思っていたので、まったく予想もしない回答に、からだが震えた」

「周首相の言葉がジーンときた。日本の心を読んでいた。日本側に仮に払う気持ちがあっても、中国側が賠償問題を言い出せば、自民党側がまとまらなくなることも、見抜いていた」

ただし、中国側は周恩来の発言を、正式な文書にはしていない。だから、竹入さん側はそれを必死に書き取った。そして、中国側に示して、これで間違っていないか、何度も確認した。ニュアンスであれ、間違っていれば「話が違う」ということになってしまうからだ。

日中国交正常化の道を開いた「竹入メモ」

竹入さんはこの会談結果を日本に持ち帰り、田中角栄総理に伝えた。8月初め、竹入さんは田中総理らに会った。箇条書きのメモをもとに、周恩来の示した「日中共同声明の案」や会談記録を見せた。そこで田中総理と、竹入委員長の間で、こんなやりとりがあった。

(田中角栄)「読ませてもらった。この記録のやりとりは間違いないな」

(竹入)「一字一句、間違いない。中国側と厳密に照合してある」

(田中角栄)「間違いないな。お前は日本人だな」

(竹入)「何を言うか。正真正銘の日本人だぞ」

(田中角栄)「わかった。中国に行く」

それまで積極的ではなかった田中総理は、自ら北京に乗り込み、国交正常化交渉に臨むことを決断した。このメモはのちに「竹入メモ」と呼ばれる。メモとはいえ、正常化交渉のための、双方が合意できる点が、文書になったのはこれが初めてだ。

田中角栄総理が中国へ行ったのは翌9月。難しい交渉だったが、『日中共同声明』が発表されて、国交正常化の扉が開いた。1972年のことだから、すでに51年になる。大きな交渉ごとはタイミングや、登場人物の個性をはじめ、さまざまな要素がうまくマッチしてまとまる。竹入メモがなければ、違った展開になっていただろう。

そのメモを手に帰国した人物が亡くなった。このコーナーでは、今年も日中関係の難しさを何度も指摘してきた。竹入メモから半世紀が経過して、日中双方のリーダーも代わり、考え方も変わった。

ただ、いがみ合っているだけでは前には進まない。そんな時は「最初に井戸を掘った人」「汗をかいて必死に走り回った人」の努力を検証してみて、今、やるべきことを考えてみてもよいのではないか。

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この記事を書いたひと

飯田和郎

1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。