能登半島地震から1か月。被災地では、行方不明者の捜索が続く。早く家族の元に帰れるようになればと誰もが祈る。一方、中国でもこのところ災害が続いているという。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長が2月1日、RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演し「習近平指導部も危機感を強めている」とコメントした。
子供や少数民族が犠牲に
まずは中国国内で今年1月の後半に起きた災害だけをピックアップする。19日夜には中部・河南省南陽市にある学校の寮で火事が発生し、小学生13人が逃げ遅れて死亡した。管理責任を問われ、職員7人が逮捕された。
また中国南西部・雲南省の山間部で22日早朝、地滑りが発生した。広範囲に山の斜面が崩落、この地滑りによって、麓の農家多数が土砂に呑み込まれ、約50人が生き埋めになった。そのほとんどが遺体で発見された。逃げ出す間もなかったようだ。
この地滑りは人災ではないかと問題視されている。現場近くには炭鉱があり、石炭採掘の影響なのか、以前から山肌に亀裂が確認されており、住民は不安視していたという。地方では今も石炭採掘が続いており、中には無秩序の生産も多い。その影響による地滑りなら、人災といえるだろう。
さらに翌23日、新疆ウイグル自治区ではマグニチュード7.1の地震が発生した。中国の西にある新疆ウイグル自治区だが、その西の端。旧ソ連のキリギスと国境を接するアクスという地域で起きた。死者は4人、1万2000人以上が避難した。こちらも山岳地帯で、きのう1月31日のアクスの最低気温はマイナス7度だった。ここでは今も余震が続く。
アクスは住民の7割から8割がウイグル族だ。民族問題が敏感な地域で復旧が遅れると、当局に対する住民の不満が高まる。当然、政権側にはその懸念もあるだろう。国営メディアは被災状況とともに、軍などが現地へ投入されて、救助や被災者支援に懸命な様子を、詳しく報じている。
さらに24日には中国の南部、江西省で39人が亡くなるビル火災が起きた。火事は地下1階で発生した。犠牲者の多くは、ビル2階にある予備校のような施設で勉強していた学生だった。火災の原因は、地下で行われていた工事で、作業員が使用を禁じられていた火を使ったことによる、とされている。これは明らかに人災だ。
習近平政権が危機感
これだけ自然災害、それに過失による災害が続くと、政権も危機感を抱く。このビル火災は午後3時半に発生したのだが、習近平主席はその日のうちに、指示を出している。「負傷者の治療に全力を尽くし、犠牲者家族へのケアを適切に行う必要がある」と、こんな指示を出した。
「これもまた、最近発生した重大な事故の一つであり、一刻も早く原因を究明し、法律に則って責任を追及し、深く反省しなくてはいけない」
「さまざまな事故の頻発を断固として抑制し、人民の生命と財産の安全、社会全体の安定を確保する必要がある」
習近平氏はただちに副首相を現地へ派遣した。事態を重大視している表れだ。
経済成長よりも「国家の安全」
今から紹介するのは、1月20日に中国政府が発表した自然災害の被害統計だ。2023年の死者・行方不明者は691人、倒壊した家屋は約21万戸、直接的な経済損失は日本円で約7兆円。この経済損失に関しては、過去5年間の平均と比べて12.6%増えたという。
生命だけでなく、国民の財産が自然災害によって、これだけ損なわれると「災難だった」「運が悪かった」というだけでは済まなくなるように思う。
最近、話題になっているインタビュー記事を紹介したい。昨年12月まで中国大使を務めた垂秀夫さんのインタビューが、月刊『文藝春秋』2月号に掲載されている。垂さんはこの中で、習近平政権について、こんな見解を示している。
「国家戦略目標、すなわちトッププライオリティの変化です。鄧小平時代のトッププライオリティは経済成長でしたが、習近平氏はそれより優位のプライオリティを設定しました。それが、『国家の安全』であります」
「今の中国経済は実際相当悪い状況だと思いますが、習近平氏にとっては、国家の安全の方がはるかに重要。これは各国の外交官にもあまり理解されていません」
「国家の安全」が最も重要だという指摘は私も同じようにみている。垂さんはその具体例として、外国人も対象にしたスパイ防止法の厳格化などを挙げている。ただ、国内の不安要因が大きくならないように摘み取るという意味では、自然災害への対応、人災の防止も同じ線の上にあるといえる。
中国での最近の不安要因といえば、不動産バブルの崩壊だ。不動産大手の恒大グループに、香港の高等裁判所が、会社を清算するよう命じる判決を出した。実際に会社が清算されるかどうかは、中国本土の裁判所の判断によるが、そこには当然、中国当局の意向が働く。恒大グループに限らず、不動産はかなり落ち込んでいる。
盤石に見える習近平政権だが、「国家の安全」という意味で、2024年は不安を抱えるスタートになった。
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この記事を書いたひと
飯田和郎
1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。