松尾潔「バラエティ番組は地獄」という茂木健一郎の投稿をラジオで支持
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脳科学者の茂木健一郎さんがXの投稿で、日本のバラエティ番組を「地獄」と表現し話題となっている。音楽プロデューサーの松尾潔さんは2月26日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』でこの投稿への支持を表明し、番組の出演者起用に第三者的視点の必要性を訴えた。
茂木健一郎氏、日本のバラエティを「地獄」と表現
今年1月に発売された僕の著書「おれの歌を止めるな ジャニーズ問題とエンターテインメントの未来」を、脳科学者の茂木健一郎さんが自身のネット番組で取り上げてくれました。視聴者と一緒に点数をつけるという恐ろしい企画で、結果は67点と微妙な数字だったんですが(笑)。それの意趣返しではありませんが、茂木さんが最近、Xに投稿したものが興味深かったので、その話をしたいと思います。
飛行機の中で、近くの方(複数)が、日本のバラエティの動画を見ていて、これは地獄だと思った。画面が汚い、テロップがしつこい、タレントがどうでもいいことを取材して、語っている。(2月24日の投稿)
この投稿には続きがあって「これじゃあ、日本、滅びるよね。」っていう憂国モードです。茂木さん自身は飛行機で移動中、アメリカのコンピューター科学者の話をポッドキャストで聴いていたそうです。
茂木さんは少し前から日本のテレビ番組のお笑い、バラエティ番組について、辛辣な発言をしていますが、今回もそうでした。
お笑い芸人やファンが面白い、面白くないとか言ってる基準って、俳句や短歌の結社でいい、悪いと言っている雰囲気に似ている。 中の人にとっては微小な差が大切だというテイで、外の人にとってはどうでもいい内輪の論理を磨きあっている。(2月24日の投稿)
これ、お笑い界の人たちの、いわゆる楽屋オチみたいなものに対しての皮肉ともとれます。そこで、ここからはお笑い、とりわけテレビのお笑いが、本当に茂木さんが地獄と表現するような危機的な状況にあるのか、ということを僕なりに考えてみます。
欧米のお笑いは日本になじまない?
アメリカやヨーロッパのお笑いは、過去に日本に何度も輸入されています。その中には「Mr.ビーン」のように、元からセリフがないことで越境に成功したものもあれば、フジテレビ『オレたちひょうきん族』のプロトタイプにもなったと言われ、アメリカではお笑い番組の代名詞にもなっている『サタデー・ナイト・ライブ』はいつまでたっても日本に定着しないものもあります。
中にはYouTubeで楽しみに見ている方もいるかもしれませんが。2011年にこの番組の日本版を吉本興業が作ろうとして、速攻で終わったということがありました。第1回のゲストが平井堅さんで、僕は当時、彼の曲をプロデュースしていたので楽しみに観たんですが、半年後にはもう番組がなかったと記憶しています。お笑いのリテラシーは国によって違うんだなと思わされました。
茂木さんのような、いわゆる国際派の方からすると、ガラパゴスと言われているような日本のお笑いの状況は、歯がゆくてしょうがない、あるいはもう見切った感じかもしれないですね。
楽屋と本番の境界が曖昧に?
僕は「日本のお笑いこそがレベル高いんだ」って言えるほど、世界のお笑いについて詳しいわけではありませんが、確かに笑いのツボは日本の番組に多いと思います。ただ一方で「これはやっちゃいかんな」もしくは「これをやるから駄目になっていくのかな」ということを感じることが最近多くあります。
一つはさっきも話した楽屋話。楽屋で話せばいいようなことがどんどん拡大していて、それこそ松本人志さんの話ではありませんが、そこがいろんなことのたがが外れる原因になっていると思うんですね。どこで一線を引くのかが分かりにくくなっているのが、今の日本のテレビの実は深刻な病なのかなと思っています。
座長がキャスティング権を持つことの功罪
『人志松本のすべらない話』(フジテレビ)は、もともと楽屋での芸人さん同士の話が面白い、と始まったようなものです。テレビの評価と違う「楽屋真打ち」みたいな存在は、昔の寄席の時代からありました。
「楽屋だと一番面白い人」というような人に光を当てるシステムが『すべらない話』で、あれは本当に発明だったと思うんです。でも、どうしてもそのノリで作っているから「これ、公共の電波に乗せていいの?」っていうようなもの、例えば女性蔑視や、いわゆる部室のノリがそのまま誰も止められないままいっちゃっているっていうところがあります。
それが許されるということは、その話の元になる実際の行動もどんどん正当化されていくという恐ろしさがあります。ましてや出演者の中でその場を仕切っている松本人志さんが、キャスティング権も持っているから話は深刻です。
出演者がキャスティング権を持つということ。これは昔から、大橋巨泉さんや関口宏さんの番組もそうでした。ビートたけしさんにしてもそうかもしれませんね。「座長」にそれを仕切らせるから、あの笑いが具現化できるところは実際にあるでしょう。
でも、ある一人のタレント、ある一つの事務所への依存度がどんどん高くなっていくのは、それがお笑いのためだったのに、最終的に笑えない状況を作り出してしまうということを、ここ数か月でわれわれは学んでいるわけです。
「お笑い」は本能に素手で触れる仕事
お笑いは素晴らしいものだと思います。当事者にならずに、あれほど高確率で大声を出して何か感情を吐露するような装置ってあまりないと思うんです。音楽は感動と結びつきやすいと言われていますが、お笑い番組が人を笑わせるほど、音楽が人を泣かせることはありません。
だからお笑いは、本能に素手で触れる仕事の中でも、すごく確率の高い、精度の高いものの一つだと思っています。お笑い芸人の人たちがそこに誇りを持つ、みんなに尊敬されるというのも、自然なことだと思うんです。
キャスティングに第三者的視点を
テレビって、なんとなく視聴者の最前列で見ているという気持ちになりますよね。寄席だと最前列のお客さんになるわけです。テレビは視聴者を、テレビに出ている人の背中越しにそこに参加しているような気持ちにさせてしまう。
特に僕が子供の頃と違って、テレビは1人1台、ましてやスマホだと、もうタブーの境界線がどんどん移動して曖昧になっています。結果として、みんなで笑えるような笑いの基のがどんどんぐにゃぐにゃになっている。
昔は笑いの等高線みたいものがあったのに、まだらになったり、途切れてしまったりしているのが現状だと思うんです。
「硬いことは言っちゃダメ、言うだけ野暮」というジャンルだからこそ言いづらいんですが、テレビのキャスティングには第三者的な視点が必要だと思います。フランスには議会における男女の数を同等にする、パリテ法というものがありますが、日本のテレビにも、例えばジェンダーバランスや、事務所バランスある程度規制するものがないと、これからは番組の維持自体が難しいことになるんじゃないでしょうか。昨年末以降、それを強く感じますね。
おそらくは茂木さんが言いたいことはこういうことじゃなかったのかな、という問いかけも含めて、そんなことを考えました。
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