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孫文の「大アジア主義演説」から100年…今日へ語りかけるもの

飯田和郎

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いまからちょうど100年前の11月28日、中国革命の父である孫文が、神戸で日本人に向けて「大アジア主義演説」と呼ばれる演説をした。「この演説には1世紀という時間を超えて、多くの示唆がある」と語るのは、東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長だ。11月25日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で、この演説内容を紹介した。

景気低迷を背景に日中関係改善に本腰か

本題に入る前に。中国政府は11月22日、日本人向けの短期ビザの免除を30日から再開すると発表した。ビザ免除の再開は、実に4年8か月ぶり。1週間前のこのコーナーで私は「中国がビザの免除措置を復活させれば、日本との関係を改善しようとする明確なシグナルになる」とコメントしたが、実際にそうなった。

こんなに早く中国が決断するとは思わなかった。しかもビザ免除での滞在期間は、コロナ前の15日間から30日間に延長。一方、8月に中国軍の戦闘機が日本領空を初めて侵犯したことについて、中国側は「気流によるもので、領空に入る意図はなかった。再発防止に努める」と日本側に伝えた。日本との関係改善に本腰を入れ始めたのは確かだ。中国の景気低迷が背景にあるのだろう。

日本人向けた孫文の「大アジア主義演説」

さて、今回はいまからちょうど100年前の11月28日に行われた、中国革命の父である孫文の演説を紹介したい。この演説には1世紀という時間を超えて、多くの示唆があるように思う。さらに、この演説は九州・福岡もおおいに関係ある。それはが行なった演説だ。

当時58歳の孫文は1924年(=大正13年)11月28日、神戸で日本人に向けて「大アジア主義演説」と呼ばれる演説をした。その翌日の朝日新聞に、この講演会が紹介されている。

孫文はこのように演説した。『吾人(=我々)の使命は、人道中心の大アジア主義によって、西洋文化に感化を及ぼす(=西洋文化に影響を与え、変えていく)ことにある』

「大アジア主義」をひと言で表現すると、「国は違っていても、アジアの諸民族の連帯・団結によって、西洋列強のアジア侵略に対抗しよう。新しいアジアを築こう」という運動――。演説内容を口語に直してみた。

「あなた方、日本民族はすでに、欧米の覇道の文化を取り入れていますが、一方でアジアにおける王道文化の本質も持っているのであります」

覇道と王道は儒教の概念だ。覇道は、武力や権謀によって支配・統治すること。覇権主義を指す。一方、王道とは君主が道徳、仁義に基づいて国を治めるという政治の道だ。当時、日露戦争でロシアに勝った日本は、アジアにおいて最も先進的。欧米の影響を大きく受けていたが、同時に日本人は「アジアにおける王道文化」、つまり道徳、仁義、人としてあるべき姿を本来、きちんと備えているはずだ――。孫文はそう訴えている。演説を続けよう。

「今後、日本が世界文化の前途に対し、西洋の覇道の手先となるのか、あるいは東洋の王道の守り手となるのか。それは日本の国民が慎重に考慮すべきものなのです」

「日本が、西洋の列強と同じように横暴に振る舞い、アジア各地で支配を広げていくことが正しいのか。それとも、東洋の道徳や仁義を元にした振る舞いをするのか。どちらを選ぶか、それは日本国民が決めることだ。答えは自ずとわかっていますよね」という問いかけだ。つまり、孫文は窮地にあった中国と日本の提携に期待を抱いたのだろう。

日本の中で変質した「大アジア主義」の定義

このころ、日本はすでに中国に進出していた。辛亥革命後の中国国内の混乱に乗じて欧米列強が中国に進出。日本も中国に対し、無理な要求を突き付けていた。1915年の「21カ条の要求」と呼ばれるものだ。これらの出来事によって、中国ではナショナリズムが燃え上がっていた。火を付けたのは、日本だったといえる。

日本政府の対中姿勢がそのようであっても、この演説を、当時の新聞、雑誌が大きく評価した。福岡市出身のジャーナリストで、のちに政治家になった中野正剛という人物がいた。中野も、孫文の演説に共感・共鳴した一人。彼は自分の著作の中で、「今の政府および政治家の中に、孫文に顔を合わせられる輩が一人でもいるか。いない」と政府批判を展開している。

ちなみに、中野正剛、それに頭山満、宮崎滔天ら九州、福岡にゆかりのある者たちは亡命中国人ら支援した。中野正剛の銅像は、ここRKB毎日放送から近い福岡市中央区の鳥飼八幡宮境内に建つ。

鳥飼八幡宮(福岡市)に建つ中野正剛像

だが、日本は中国、そしてアジアに対する強硬路線へと突き進む。孫文は1925年3月、北京で亡くなった。この大アジア主義演説からわずか4か月後のことだ。この演説は、孫文自身の支援者もたくさんいた日本に対する「遺言」だったような気がする。

アジアが一丸となって帝国主義に対抗しようという「大アジア主義演説」。だが、日本における「大アジア主義」の定義は次第に変質していく。大勢は日本の中国支配、アジア支配を主にした東亜新秩序の建設、大東亜共栄圏建設という名の野望に形を変えてしまった。政府・軍部の大陸侵略策を正当化するイデオロギーになり、日中戦争、アジア太平洋戦争へと日本は突入する。

米国主導に組み込まれアジア諸国と絆が弱い日本

孫文の提唱した「大アジア主義」の今日的な意味はどこにあるだろうか? 「西洋の覇道に対抗して」という演説の下りは、演説から100年=1世紀が経過した今日、国際情勢が大きく変化して、意味を持たない。

ただ、孫文が日本に求めた「アジアの国々、人々への向き合い方」はどうだろうか。その後、ゆがんでしまった「大アジア主義」に対する反省を経ても、敗戦後80年が経ようとしても、アジアの国々が抱く日本に対する期待には十分、応えていないように思える。

当時、アジアにおいて、最も先進的だった日本、そして戦争に負けたのに、ずっと経済力でずっと先頭を走ってきた日本。100年前に孫文が指摘したように「日本こそ、率先し、その模範になるべきだ」の言葉を、実践してきただろうか。

米国主導の世界秩序に、組み込まれてきたことを、アジアの国々はどのように感じていたのだろうか。そして、その間に、急速に国力を高めた中国の影響力がアジアに着実に浸透している。それは日本とアジア諸国との絆の弱さを示していないだろうか。

中国も孫文演説の考え方を理解すべき

一方の「覇道」――。孫文が戒めた覇道=覇権主義の道を今、突き進んでいるのは、孫文の母国・中国ではないか。アジアに限らず、世界中で今、中国が進めている行為は「覇道」に見える。

同時に習近平主席が国内で行っている施策、たとえば少数民族政策や宗教政策、そして台湾への圧力は「王道」には思えない。孫文は、中国で「国父=国の父親」と崇められている。中国指導部にも、神戸での「大アジア主義演説」が意味する「王道」の考え方を理解すべきだ。

そして、孫文を支えた数多くの先人がいた九州、この福岡で暮らす我々こそ、現在の日本のアジアに対する姿勢を問い直してみてはどうだろうか。

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この記事を書いたひと

飯田和郎

1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。