東アジア情勢に詳しい元RKB解説委員長で福岡女子大学副理事長の飯田和郎さんがRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で「戦後80年」をテーマに日本と周辺国の関係について語るシリーズ。8月18日の放送では、終戦80年を迎えた今、日本とモンゴルの関係について解説しました。モンゴル民族の「統一」という夢に、日本が深く関わっていた歴史を紐解きます。
「シベリア抑留」とモンゴル
まずは8月15日にアラスカで行われた米ロ首脳会談について触れておきましょう。ロシアによるウクライナ侵攻について、具体的な進展は示されませんでしたが、合意事項の一つとして、アメリカとヨーロッパがウクライナに対し、「安全の保証」を提供し、プーチン大統領がこれを容認する考えを示したとされています。
この「安全の保証」とは、ウクライナが望むNATO加盟に代わる、NATOに類似したものだといいます。この合意を受け、本日18日には、ワシントンにウクライナのゼレンスキー大統領とヨーロッパ首脳が集まり、トランプ大統領と協議する予定です。今後の行方に注目したいところです。
さて、日本ではこの8月15日で終戦から80年を迎えました。今月は日本の周辺国や地域にとっての「戦後80年」をシリーズで考えています。今日は、親日国のイメージが強いモンゴルを取り上げます。
先月、天皇・皇后両陛下がモンゴルを訪問し、強制労働に従事した日本人抑留者の慰霊碑で黙祷されました。第二次世界大戦後、約60万人の日本人軍人や民間人が、いわゆる「シベリア抑留」として旧ソ連に連行されましたが、その連行先はロシアだけではありませんでした。モンゴルには1万4000人が移送され、約1700人が現地で亡くなったとされています。
「内」と「外」に分かれたモンゴル民族
モンゴルには、独立国家としての「モンゴル国」と、中国の「内モンゴル自治区」があります。国境を挟んで同じ民族が存在し、標準的なモンゴル語はほとんど同じで、同じチベット仏教を信仰しています。
なぜ同じ民族が「内」と「外」に分かれているのでしょうか?実は、モンゴル民族には「統一国家」を求める動きがあり、戦前の日本の動きと無関係ではありません。
モンゴルは元々、一つの民族による国でしたが、17世紀に中国の清の一部となりました。その後、清からの独立と「内」と「外」の統一を目指す動きが起こりました。今年は、モンゴル統一を掲げたモンゴル族による政党「内モンゴル人民革命党」が誕生してから100周年の節目でもあります。
この政党は、当時独立を果たした外モンゴルに合流しようとしましたが、1932年に満州事変が起き、日本が現在の中国東北部に傀儡国家「満州国」を作ると、内モンゴルの一部はその満州国に統合されました。日本の敗戦後、内モンゴルは再び中国に統合され、政権を獲った中国共産党は内モンゴル人民革命党の活動を否定し、幹部の粛清や虐殺も起きています。
日本と協力し「統一」を夢見た徳王
これとは別に、内外モンゴルの統一を夢見た人物がいます。日本の歴史上は「徳王(とくおう)」という名称で知られ、本名はデムチュクドンロブ。チンギス・ハーンの血を引くモンゴル族の王族に生まれ、内モンゴルの自治権獲得、そして独立、外モンゴルとの統合を目指しました。その手段として日本と協力します。
1939年には日本軍の援助のもと「蒙古連合自治政府」を樹立し、自らトップの主席に就任しました。この自治政府も満州国と同様、日本による傀儡政権でした。徳王は日本を訪れ、天皇に拝謁するほど厚遇されましたが、日本は徳王の夢を利用したとも言えます。日米開戦前、日本はアメリカから「中国から軍隊を撤収するように」と要求されましたが、このモンゴルエリアにも多数の日本軍が駐留しており、日本はこの要求を拒んで戦争へと至りました。
日本の敗戦後、徳王は中国に送還され、戦犯となりました。戦前、徳王と親交のあった日本人には、後に総理大臣になった大平正芳がいます。彼は1939年に大蔵官僚として、中国大陸にあった日本の占領地を管理・運営する組織(蒙疆連絡部)に幹部として赴任し、たびたび徳王と会っていました。これもまた、日本の関与を示す一ページです。
歴史に潜む「日本の影響」
80年前に終わった戦争の前には、「内」と「外」のモンゴル、そしてその統一という歴史の中に、日本の存在が深く関わっていたのです。
中国の内モンゴル自治区では、今も少数民族問題がくすぶっています。モンゴル族はチベット仏教を信仰し、その最高指導者ダライ・ラマ14世を中国当局は「分離独立主義者」と非難しています。チベット仏教でつながる「内」と「外」のモンゴル、そしてチベット。同じモンゴル民族同士の統一を望む声は根強く、それを支援する組織も海外に存在します。
歴史家の中には、傀儡政権を樹立し、モンゴル統一を目指す勢力を操った日本が、内モンゴルの民族問題をもてあそんだ、と主張する研究もあります。日本とは無関係に思える、現在の内モンゴル自治区の民族問題の遠因を作ったのは日本だという主張です。
戦後80年。日本と中国の間の歴史問題は、私たちが知らないような場所にも横たわっているのです。
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この記事を書いたひと

飯田和郎
1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。2025年4月から福岡女子大学副理事長を務める。





















