東京の国立競技場で開かれている世界陸上は9月21日に最終日を迎えます。この大会では女子選手全員に対する性別検査、女性であることを確認する検査が義務づけられ、こちらも話題になりました。この問題をどう考えればいいのか、9月19日放送のRKBラジオ『立川生志 金サイト』に出演した、元毎日新聞オリンピック・パラリンピック室長の山本修司さんがコメントしました。
「性別」をめぐるアスリートの葛藤
私は棒高跳びで6メートル30の世界新記録が出た9月15日に世界陸上を見て大変感動したのですが、こうしたアスリートたちの競技での活躍の陰で、アスリートの性別の問題というのは、これまでもたびたび話題になっています。
2012年のロンドンオリンピック、2016年のリオデジャネイロオリンピックの女子800メートルで2連覇した南アフリカのキャスター・セメンヤ選手が知られていますが、セメンヤさんは男性ホルモンの一種であるテストステロンの数値が女性としては著しく高く、筋肉質の体や低い声などもあって性別を疑われました。
そこで国際陸上連盟は2018年に「テストステロン値が高い女性の出場資格を制限する」という新しい規定を作りました。それで一時はテストステロンを下げる薬を飲むことを余儀なくされたのですが、これはとても副作用がひどかったのです。それで薬を飲むことをやめて、この規定の無効を求めてスポーツ仲裁裁判所に訴えたのですが、退けられました。
事実上、セメンヤさんを競技から締め出したといえる判断で、その後セメンヤさんは結局、サッカー選手として活躍しました。
この話をすると「セメンヤさんがあまりにも気の毒だ」という人と、「女子の競技に男性の要素を持った人が入ったら勝負にならないので仕方ない」という人がいて、どちらにも理があるように思えますね。そして判断を難しくしているのは、多くの女性アスリート自身が「公平な環境で競技をするには、性別検査は必要」と考えていることです。セメンヤさんのような選手は少数派ですから、多数派の女子選手にとっては「公平性」という理由で、性別検査を支持するのはある意味で自然なのです。
そうなると俄然、性別検査賛成派が勢いを持ちます。世界陸連のセバスチャン・コー会長(陸上男子1500メートルで1980年モスクワ、84年ロサンゼルス大会で2連覇)は、今回の検査が、男性化させる働きがあるY染色体の有無のみを調べるもので、他の遺伝情報は一切対象外であること、検査後は廃棄すること、ほおの内側の粘膜や血液検査という体を傷つけない方法で行うことなどを強調し、「男性の生物学的特性が女性のそれと競合しないことが重要で、そうでないと女子種目の意義が失われる」と主張しています。
「公平性」をめぐる二つの視点
この「女子種目の意義」ということにも説明が必要です。先日の毎日新聞に男子400メートルハードルで銅メダルを2回獲った為末大さんがこの問題に絡んで見解を述べていましたが、その中で為末選手は、自分が15歳の時に出した200メートルの中学記録は21秒36で、1988年にあのフローレンス・ジョイナー選手が出した200メートルの世界記録は21秒34でほぼ変わらず、現在の中学記録は21秒18で0秒18速く、女子の世界トップ選手が日本の男子中学生に勝てないほど男女の身体能力は違うことを強調していました。そのくらい差があるのですね。
ただ「性」というものは、いつもはっきり白黒がつくものではなく、グラデーションがあるということを押さえておく必要があります。Y染色体が存在しても、その後の性が分かれていく過程、性分化といいますが、この過程で様々な状況が生じることが分かっていて、例えばセメンヤさんの体内で数値が高かったテストステロンが作られても、そのホルモンに反応できない体質があるということ、つまり、Y染色体が存在しているというそれだけで、その人が生物学的に男性とは判定できないことがあるというのです。
実際にこれに該当する選手がいて、それを一つの契機として、国際陸連は1991年に、IOC、国際オリンピック委員会は99年に、疑義が生じた際の個別検査は実施するとしながらも、全選手への性別検査の実施を廃止しました。これが今回、再び全員検査が義務化されたということなのです。それで「なぜ復活させたのか」ということになっているわけです。
先ほどから「公平性」という言葉を使っていますが、世界陸連の言う公平性は、「筋肉の量や強さが大きい男子が女子と一緒に競技をするのは不公平だ」というものです。スポーツにはもう一つ公平性があって、それは「どんな人も競技に参加できる」という公平性です。「例えば、セメンヤさんは女性と断定できないので男性と競技すればいい」というのは、女性であると認知しているセメンヤさんにとっては到底耐えられないもので、そもそも多様性が不可欠な時代にあって、男と女をすぱっと二つに分けるというのはあまりにも乱暴です。パラリンピックのように、クラス分けをすればいいという意見もありますが、例えば男女の間を3段階にクラス分けするということが現実的だとは、私にはとても思えません。
過去の教訓と未来への議論
「スポーツは努力か才能か」というのは永遠のテーマですが、圧倒的に強い男性は検査を受けることはない一方で、圧倒的に強い女性について、その理由を不断の努力でなくホルモンや染色体のせいにするのは、男女の能力差を前提にしても極端すぎないか、という意見にはやはり一理あります。
フランスのロクサナ・マラシネアヌ・スポーツ大臣はかつて「競技に出る女性には他の女性より強い女性がいるし、競技に出る男性には他の男性より強い男性がいる。それがスポーツの大原則であり、最も優れた成績の者が勝者なのだ」と述べましたが、最もシンプルな考え方といえます。
『アザー・オリンピアンズ 排除と混迷の性別確認検査導入史』というノンフィクションがあるのですが、優生思想を国是としたナチスはベルリンオリンピック開催が決まるとスポーツ界に介入し、いわゆる「女性らしさ」を欠く選手を狙い撃ちにして、偏見に満ちた性別検査をしたことが書かれています。
いまトランプ政権下のアメリカでも、ここまでひどくないにしても、多様性を否定して「世界には男性と女性しかいない」というようなことが進められていますが、非常に懸念される事態です。
「女性が女性と公平に競技する」という公平性と、「誰もが競技に参加できる」という公平性、この二つの公平性のバランスを取るというのは言葉で言うのは簡単ですが、そう簡単なことではよく分かったと思います。明確な答えはなかなか出せないのですが、いまは特に排除の論理が幅を利かせている時代になっていますから、過去の教訓を生かして、せめて行きすぎのないように議論していかなければならないと思います。
この記事はいかがでしたか?
リアクションで支援しよう
この記事を書いたひと

山本修司
1962年大分県別府市出身。86年に毎日新聞入社。東京本社社会部長・西部本社編集局長を経て、19年にはオリンピック・パラリンピック室長に就任。22年から西部本社代表、24年から毎日新聞出版・代表取締役社長。






















