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最初か、最後か“違和感”の正体は?藤中松雄が問われた「石垣島事件」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#4

戦犯として処刑された人たちの遺書は、「世紀の遺書」の名で刊行された。

藤中松雄が問われた「石垣島事件」

世紀の遺書

 

1950年4月7日にスガモプリズンで命を絶たれた藤中松雄。幼い息子たちに向けて「戦争絶対反対」と書いた遺書は、1953年に刊行された戦犯たちの遺稿集「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会)に収録されている。妻や息子ら家族親族に宛てた文章のほかにも、米軍将校が居並ぶ中での死刑執行の宣告の様子なども細かく書かれている。
藤中松雄が戦犯に問われた事件は、1945年4月15日沖縄県の石垣島で米軍機の搭乗員3人が殺害されたというもので、「石垣島事件」と呼ばれている。3人の殺害に対して、元日本兵41人が死刑を宣告され、松雄を含む7人に絞首刑が執行された。BC級戦犯を裁いた横浜裁判では、「九大生体解剖事件」「バターン死の行進事件」と並んで、俗に言う「三大事件」に挙げられていた。

感じた「違和感」

横浜裁判 九大生体解剖事件(米国立公文書館所蔵)

 

日本の戦後史にまつわる多くの著作がある上坂冬子(1930-2009)は、「巣鴨プリズン13号鉄扉」(新潮社、1981年)で、かなりのページを割いて松雄の遺書を紹介している。次男の孝幸さんによると、上坂が藤中家を訪れたのは2回。松雄の妻、ミツコとその母、ミヨが取材に応じたという。松雄は藤中家に婿養子に入っているので、ミヨは妻の母というより、戸籍上は養母となる。上坂の著書には、アメリカ国立公文書館から石垣島事件の裁判に関する文書を取り寄せ、英文タイプ1629ページに及ぶ公判記録は膨大なものだったとある。殺害された3人の米兵のうち2人は首を斬られた。残る1人は杭に縛られ、数十人の兵士から銃剣で突かれたという。

 

藤中家にお邪魔して松雄の次男、孝幸さんにお話を伺ったところ、気になることがあった。
「お父様が戦犯に問われたのはどうしてですか?」と聞いたところ、「米兵にとどめを刺したようだ」と答えたのだ。「とどめを刺した」ということは最後に刺したという意味だろう。
しかし、上坂の著書には、「松雄は最初に刺した」と書いてあった。

 

最初か、最後か。この違いはどこからきているのだろう。

1958年の記事が伝えた藤中松雄

サンデー毎日特別号 1958年

 

「とどめを刺した」と孝幸さんが話した根拠はすぐに分かった。資料として用意してくださっていた「サンデー毎日」にその記述があったのだ。

 

1958年(昭和33年)9月1日発行の「サンデー毎日特別号 特集 地獄から帰った人々」は、戦犯たちが囚われたスガモプリズンがこの年の5月30日に閉鎖されたことから組まれた特集で、何人もの戦犯の人たちの事案を紹介してあり、そのうちの一人として「最後の絞首台へ」という見出しで4ページに渡って松雄のことが取り上げられている。スガモプリズンでは、松雄たち「石垣島事件」の7人が1950年4月7日に処刑されたのが、最後の死刑執行となった。松雄のパートは毎日新聞筑豊支局の記者が書いたものだ。この記事では、松雄はほかの5,6人の日本兵が米兵1人を虐待しているのを見かねて、楽に死なせてやろうと銃剣で心臓を突き刺したとある。「家族や関係者の話を総合して」書いた記事であり、当時は裁判資料も入手困難な状況なので、ある程度、齟齬があるのは仕方が無いだろう。

真実を探すことに

サンデー毎日 特集ページ

 

ただ、最初に父に関して書かれたこの記事を、孝幸さんは事実としてずっと心に留め置いていた。松雄が亡くなってすでに70年が経過した。なぜ、松雄は戦犯に問われたのか。「父の事を知りたい」と私たちに話した孝幸さんに、検証し得る限りの真実を知らせたいと思った。(エピソード5へ続く)

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

*本エピソードは第4話です。
ほかのエピソードは関連リンクからご覧頂けます。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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