「死刑執行」は“赤”で記されていた、藤中松雄の軍歴が語るもの~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#6
BC級戦犯として処刑された藤中松雄。松雄の御遺族に、戦争中の松雄がどう動いたのかが分かる「軍歴」を取り寄せてもらった。20歳で徴兵され、終戦時には下士官だった松雄。およそ4年間の記録はわずか1枚。2枚目に記された死刑執行の文字は赤で記されていた。軍歴は何を語るのかー。
赤字で書かれた死刑判決と死刑執行
2枚目の頭の記載は、
昭和22年7月2日 戦犯(巣鴨)
スガモプリズンに入所したのが7月2日ということである。上坂冬子の著書では、上坂の取材に応じた松雄の養母ミヨ(妻ミツコの母 婿養子なので養母となる)が、松雄が連れていかれたのは、「たしか下の孫が生まれて百か日を過ぎた頃でした」と答えているので、1月生まれの次男・孝幸さんの誕生日から計算して4月に拘束されたことになっている。1958年発行のサンデー毎日特別号でも同じ表現になっている。国立公文書館所蔵の資料でも入所日は7月2日と記したものがあったので、どこか拘置所や刑務所を経由してスガモプリズンに入所したのかもしれない。福岡市に置かれた西部軍関係では、BC級戦犯に問われた人の経歴を見ると、まず福岡刑務所に収監されて4ヶ月後にスガモプリズンに入所していたので、松雄もそのような経過だったのかもしれない。
昭和23年3月16日 (絞首刑)判決
昭和25年4月7日 (死刑執行) 於巣鴨 戦犯刑第五四号
赤字で書かれた判決と死刑執行。
死後18年経った昭和43年12月25日の「旭 七」の文字は、日本国天皇から「勲七等青色桐葉章」が贈られたという記載だった。
戦後80年を迎えようかといういま、戦争で何があったかを検証しようにも、それを語れる人はごくわずかになってしまった。しかし、残された記録からは読み取れるものがあるはずだ。今回の番組制作にかけた時間の大部分が資料の収集と分析に費やされることになった。
(エピソード7へ続く)
*本エピソードは第6話です。
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【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
もっと見る1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。