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密告したのは誰だ~石垣島事件はなぜ発覚?~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#29

太平洋戦争末期、石垣島で元日本兵が米兵の捕虜3人を殺害した石垣島事件。戦後、横浜軍事法廷によって米軍からBC級戦犯として46人が裁かれることになったが、その発端となったのは、投書だった。誰が?どんな理由で?敗戦の19年後、1964年に法務省が関係者に面接した調書があった。そこに書かれていたのはー。

GHQへの投書によって発覚

「戦犯裁判の実相」で石垣島事件についてまとめた炭床静男(米国立公文書館所蔵)

 

巣鴨法務委員会が1952年に発行した「戦犯裁判の実相」の中に、「横浜地区石垣島事件の概要及び裁判の経過」というページがある。藤中松雄の陳述書にも出てくる炭床静男兵曹長がまとめたものだ。スガモプリズン在所中に発行されている。

石垣島事件のページは、被告人名簿が2ページ、事件の概要と裁判の経過が2ページだ。「戦犯裁判の実相」で、横浜裁判中、個別の事件についてページが割かれているのは、石垣島事件しかない。その最初に次のように書かれている。

「事件の発覚 GHQ宛 鹿児島加世田の消印ある投書による」

1964年の面接調書

戦犯裁判の実相(復刻版)

 

1956年に法務省で省議決定された「戦争裁判関係資料収集計画大綱」に基づいて調査・収集された戦犯関係の資料は、現在、国立公文書館に収蔵されている。

この中に、元海軍大佐で戦後第二復員省に勤務した豊田隈雄や元陸軍大佐の井上忠男が実施した面接調査の調書がある。石垣島事件については、検察側証人1人と、横浜裁判で死刑を宣告された元戦犯3人が1964年に調査に応じている。

密告したのは、上官への恨みから?

石垣島事件の横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)

 

まず、石垣島事件の裁判で検察側証人として出廷した、事件当時、一等兵曹先任衛生伍長だった男性の調書。この男性はアメリカ生まれで、幼少期に祖父母に連れられ日本へ来た。検察側証人になったのは、検察側から利益を提示されて、検察側のために働いたというのではないという。

事件の密告については、「福岡の土手町刑務支所の監房で、炭床兵曹長から聞いた話」として、次のように述べている。

「久里浜上陸時、某氏が簡単な投書を進駐軍に差し出したということであった。その某氏は、戦時中、副長から鞘のままの軍刀で殴打されたことを恨みに思って訴えたということである」

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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