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「私が命令した」裁判直前、司令の方向転換~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#34

1945年、石垣島警備隊の司令、井上乙彦大佐は、米軍機搭乗員3人の殺害を部下に命令した。しかし、井上大佐は米軍の調べに対して「自分は知らなかった」と述べていた。結果、「共同謀議」で大勢の者が殺害に関与したとして41人に死刑が宣告される事態となったのだが、井上司令は最後まで「知らなかった」で通したわけではない。国立公文書館にその経緯が分かる資料があったー。

黒田官兵衛の重臣の血筋

石垣島警備隊司令 井上乙彦大佐(米国立公文書館所蔵)

 

上坂冬子の著書「遺された妻 横浜裁判BC級戦犯秘録」(1983年 中央公論社)によると、井上乙彦は黒田官兵衛の重臣の血を引く、とある。明治31年(1898年)生まれで、処刑当時51歳。大正9年(1920年)に海軍兵学校を卒業した「武人」だと書いている。

井上大佐は、同じスガモプリズンで半年前に絞首刑となった東海軍の司令官、岡田資中将と比較されて語られることがある。岡田中将は法廷で「米軍の無差別爆撃は戦争犯罪ではないのか」と問いつつ、部下をかばって自分一人が絞首刑となった。東海軍で殺害した捕虜の数は38人に上る。岡田中将は日蓮宗の信者で、スガモプリズン内での信仰の中心となり、多くの死刑囚から慕われた。大岡昇平が「ながい旅」でその戦犯裁判の経過を著し、2007年には、映画「明日への遺言」(小泉堯史監督)が製作されている。

3人の殺害で7人が絞首刑に

東海軍司令官 岡田資中将

 

一方、石垣島事件は捕虜3人の殺害に対して、7人が死刑になっている。戦犯裁判に対する井上司令の態度に問題があったのでは、と言われているのだ。上坂はアメリカの国立公文書館に収蔵されていた1629ページの公判記録を読んだ上で、「井上司令が自己の責任を回避した事実は見当たらない。処刑命令をくだしたのは自分であると明言した」としている。そして「なぜあのような批判を浴びねばならなかったのであろうか」と語っている。

実際はどうだったのか。上坂が上梓した時代には公開されていなかった法務省の資料にその経緯が読み取れるものがあった。現在は、国立公文書館に移管されている。

「何も知らなかった」を謝罪

遺された妻 横浜裁判BC級戦犯秘録 (上坂冬子著 中央公論社)

 

敗戦から22年が経過した1967年に、法務省の面接調査に応じた大分県在住の元上等水兵は、井上司令についてこう述べている。

(元上等水兵の面接調書 1967年)
「裁判前、被告全員と弁護人全員が集まり、弁護方針について相談したことがあったが、そのとき、井上司令は初めて、皆に対し『私は検察側に対して、処刑当日は陣地を廻っていたため、事件のことについては何も知らなかったと答えてあったが、まことに済まなかった。今ははっきり私の命令によって処刑したものであることを認める』と言われたが、皆としては『起訴状もすでに出されてからそんなことを言われても役に立たない』との意見であり、司令の態度に対しては皆不満の色が濃厚であった。」

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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