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法廷の被告人席に父がいた…死後70年経って初めて見た“父の姿”~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#7

名前がずれたキャプション「藤中さんの名前はない」

高澤弘明准教授

 

 

2020年10月、千葉県習志野市にある日本大学生産工学部の高澤弘明さん(現准教授、当時は専任講師)の研究室にお邪魔した。高澤さんは、アメリカの国立公文書館で戦犯関係の1660枚の写真を入手していた。公文書館でひたすら写真をカメラ撮影し、帰国後写真データを見ながら、少しずつ分析作業を進めているという。石垣島事件に関する写真は35枚ほどあり、写真の裏に貼られたキャプションを1枚1枚読み取ってリスト化したそうだ。

 

日本大学生産工学部・高澤弘明さん「キャプションには被撮影者の名前が書いてあるんですけど、石垣島事件の場合は全部名前がずれているんです。だからどうしても誰が写っているか特定できなくて、関係者とご遺族しかわからない状態だったんですね」

 

キャプションには藤中さんの名前はまったくなかったという。ただ、藤中さんが石垣島事件に関係しているということは書物などから判明していたので、高澤さんは碓井平和祈念館に連絡を取った。青山さんから藤中家に問い合わせをしてもらい、グループで写っていた写真の中に藤中さんがいたことが確認できたという。公文書館にあった写真には、それぞれの被告人が弁護人とMP(米軍の憲兵)に付き添われて判決の宣告を受けている写真も沢山あったが、その中に藤中さんの姿はなかった。

 

高澤さん「公文書館のスタッフにきいたら、費用と置く場所の問題でずいぶん処分したということなんですね。いまは処分していないということなんですが、30年か40年くらい前ですね。だからなんとか残ってくれていたっていう、そういう写真ですね。」

戦犯を研究する苦悩、“躊躇”することも

写真の裏の説明をする高澤准教授

 

 

ただ、戦犯として裁かれる法廷での姿をとらえた写真を公開することについては、高澤さんは躊躇するところもあったという。

 

「肉親がこういうところにおられるっていうのは、どうしても複雑な心境になられるんじゃないかと考えると、公開するのは心が重くてどうかなと思ったんです。ご遺族の中には忘れたい過去と思っている方もいらっしゃいますし、そういうことからすると、この分野の研究は難しいなっていうのはいつも感じています」
(9月15日公開のエピソード8へ続く)

 

*高澤さんの「高」は旧字体を通用字体に置き換えています。

 

*本エピソードは第7話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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