BC級戦犯として28歳で処刑された藤中松雄。スガモプリズン最後の死刑執行となったこの日、松雄を含め「石垣島事件」に関わった7人が絞首台に上った。水産を学んでいた学徒兵、田口泰正もその1人だった。ジャーナリストの森口豁さんが1993年に出版した「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」に米兵捕虜殺害事件の内容と横浜裁判の経過が詳しく書かれている。
松雄と同じ日に絞首台に上った「最後の学徒兵」田口泰正
藤中松雄が処刑されたのは、1950年4月7日。スガモプリズン最後の死刑が執行されたこの日、絞首台に上ったのは、松雄を含め「石垣島事件」の7人だった。そのうちの一人、田口泰正は、大正11年(1922年)7月19日生まれ。北海道小樽の出身だ。年齢は松雄の一つ下になるが、東京の水産講習所(現在の東京海洋大学)で学んでいた学徒兵なので、階級は少尉で小隊長だった。琉球新報から日本テレビを経てフリーのジャーナリストとして活動されている森口豁さんは、日本とアメリカの資料を発掘して、1993年「最後の学徒兵」(講談社)を出版された。森口さんは、当時まだ存命であった元被告の数人に直接、取材もされていて、日米の公文書の記載だけでなく貴重な証言を交えて、「石垣島事件」の内容と裁判の経緯を明らかにしている。
「石垣島事件」は大量の被告を裁いた点で、横浜裁判の中では有名な事件ではあるが、すべての被告が元兵士で、捕虜の殺害方法も「九大生体解剖事件」のような特異なものではないためか、事件の内容まで踏み込んで研究している人は見つからなかった。戦犯裁判に詳しい恵泉女学園大学の内海愛子名誉教授にもお尋ねしたが、やはり研究者は聞いたことがないということだった。森口さんの著書が、石垣島事件について最も詳しく情報量が多いものだった。
辞世の句「ひとすじに世界平和を祈りつつ」日本よ、さよなら
田口泰正の遺書は、「最後の学徒兵」に引用されているが、戦犯たちの遺書を集めた「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会、1953年)にも収録されている。田口は、最後の晩餐の献立も遺書に記していた。
(田口泰正の遺書)
午後五時半頃より一時間程最後の晩餐をする。田嶋先生を中心にしてウイスキーを乾杯し ご馳走をいただく。注文の通り寿司、トンカツ、マグロ刺身、味噌汁、コーヒーにりんご、 梨の果物がついた。十二分に堪能して余興に入る。
田嶋先生とは、「スガモプリズンの父」と呼ばれた教誨師の田嶋隆純氏で、死刑執行の寸前まで死刑囚たちに寄り添った。
食事が終わり、部屋に戻ったのが午後6時半。「あと6時間の寿命」と意識した田口は辞世の句で遺書を終わらせている。
(田口泰正の遺書)
辞世
ひとすじに世界平和を祈りつつ円寂の地へ いましゆくなり
では日本よ、同胞よ、祖父母様、父母様、弟よ。ご機嫌よろしう。左様奈良。
昭和二十五年四月六日午後七時 田口泰正
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。