森口豁さん「戦中戦後で180度物差しが変わった」
2020年10月、東京のご自宅近くで森口豁さんとお会いした。森口さんは大病をされて治療後まだ養生されているにも関わらず、お時間をとってくださった。田口泰正の取材で遺族たちとも接している森口さんは、日常的に「戦犯」という言葉が気軽に使われる風潮について、憂いていた。
「簡単に今、戦争犯罪人、『戦犯』 っていう言い方が日常会話の中で飛び出すんだけれどもね。この言葉を聞くたびに、僕は遺族たちの気持ちを思いやるんだよね。つまり遺族たちはみんな自分の息子たちや身内がこういう罪を犯したとか、今裁かれてるだとか、あるいは死刑になったんだというような時代を、周囲の目を気にしながら生きてきたんだよね。だから、知らない人たちが野球のシーズン終わりに負けたチームの誰が『戦犯』だみたいなことを気軽に言うんだけれども、野球選手に対してであろうと、そんな形で使っていい言葉だとは決して思わない。」
森口さんは、藤中松雄が田口と共に石垣島事件で処刑された1人であることは知っていたが詳しくはご存じなかったので、松雄の遺書を見てもらった。じっと目を通していた森口さんは「『戦争絶対反対』を子にも孫にも叫んでいただく」という文言を見て、口を開いた。
「結局、戦前戦中1945年の8月15日まで善いこととされたことが、日本の敗戦によって180度変わってそれが悪になっていくと。要するに物差しがまったく変わったわけだよ、日本を測る物差しがね。昔の価値観が全部否定されてね。アメリカが裁いた戦争犯罪の裁判が100%正しいとは思わないし、勝者が敗者を裁くようなそんな裁判で処刑して良いのだろうかという気持ちはもちろんあるよ。あるけど、藤中さんの言葉は、その8月15日の前後、二つの時代を生きた人が見出した自分なりの結論だと僕は思うよ。それは大事にしなきゃいけないよね。彼の叫びっていうのは大事にしなきゃいけない」
そして森口さんは、「いいよ、協力しましょう」と仰って、番組制作に力を貸してくださることになった。
(9月29日公開のエピソード10に続く)
*本エピソードは第9話です。
【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
もっと見る1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。