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知ってほしい「朝鮮皇后暗殺事件」命日に未来志向で考える日韓の若者たち

128年前の10月8日、朝鮮王朝末期の皇后「閔妃(みんび)暗殺事件」が起きた。首謀者は日本陸軍の中将。だが、日本ではあまり知られていない。事件に参加した民間人のうち、多くが熊本県民だった。RKB毎日放送の神戸金史解説委員長は、熊本市で3年ぶりに開かれた追悼式典を取材し「九州の人にこそ知ってほしい」と、RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で語った。

朝鮮の「皇后哀悼式典」が熊本で開かれた

今日は「閔妃暗殺事件」に触れたいと思っています。殺害されたのは、朝鮮王朝末期の皇帝(高宗)の妻、閔妃。「閔(ミン)」は朝鮮の苗字で、「閔という家から嫁入りした皇后」という意味です。

 

閔妃が宮殿で殺害されたのは、今から128年前の1895年10月8日。閔妃は44歳でした。死後に「明成(めいせい)皇后」と送り名されています。事件の首謀者は、山口県萩出身の三浦梧楼(みうら・ごろう)陸軍中将です。朝鮮に駐在する特命全権公使として赴任したばかりでした。

 

式典が開かれた韓日文化交流センター

 

今年の閔妃の命日に、熊本市にある「韓日文化交流センター」で皇后の追悼式典が開かれたので、取材に行ってきました。会場には、のちに裁判にかけられた日本人48人の名前がはってありました。うち21人が熊本県出身者だということです。現地の日本語新聞(漢城新報)社長の安達謙蔵の名もありました。首謀者の三浦梧楼・陸軍中将とは親しい仲でした。

 

暗殺に参加した熊本県人の中には、後の安達謙蔵内務大臣の名前も

「明成皇后のさびしい魂を弔うため、ここ日本の地・熊本で、韓日両国間の許しと謝罪、記憶の一環として、両国の相互発展と和合を図りたいと思います」(拍手)

閔妃追悼の舞踊

 

会場では民族音楽が流れ、追悼の踊りが奉納されました。

閔妃暗殺を計画した日本人

哀悼式典会場に設けられた祭壇

 

閔妃は1866年に皇帝の妻となりました。国の実権は、夫である皇帝の父親(大院君)が握っていました。1873年に閔妃たちのグループが義理の父を追放し権力を掌握した、という状態でした。

 

当時の朝鮮は、植民地主義の世界で「草刈り場」のようになっていました。朝鮮より早く開国して植民地主義の世界に加わった明治の日本は、朝鮮の権益をめぐって、日清戦争を戦って勝利。今度は、南下政策を取るロシアとの争いになりました。

 

国力が弱い朝鮮は、嫌々ながらでも、日本かロシアかを選択しなければならない状況になっていたのですが、ロシア側に傾いていった閔妃が、日本にとっては障害でした。三浦梧楼・朝鮮特命全権公使は、朝鮮駐在の日本守備隊、日本の民間人、それから日本軍人が指導教官をしていた反閔妃派の朝鮮人部隊も巻き込んで、閔妃を宮殿内で殺害したのです。

 

日本の守備隊は中隊(140人以上)で、民間人は40人以上いたと言われていますが、もっと多いと言われていて、はっきりしません。宮殿に侵入した民間人の方が、部隊より先に王妃の寝室にたどり着きますが、宮殿内には多くの女性がいて、誰が閔妃か分からなかったそうです。そこで、容貌や服装が美しかった女性3人を殺害しています。そのうちの1人が閔妃でしたが、あとの2人はお仕えする侍女でした。

 

角田房子著『閔妃暗殺』=表紙の写真は閔妃ではないとされている

 

ノンフィクション作家の角田房子さんが35年前に書いた『閔妃暗殺』は、日本人の立場で閔妃殺害を調べた本です。

 

角田房子著『閔妃暗殺 朝鮮王朝末期の国母』(新潮社1988年、文庫版1993年)

 

乱入した日本人は、様々な手記を残していますが、自分の行為を自慢したり、逆にまずい部分をぼかしたりしているので、「そのまま信じることはできない」と角田さんは慎重に筆を進めます。しかし、全員が「閔妃暗殺は、日本の将来に大いに貢献する快挙である」と信じて一点の疑いもなかった」(文庫版377ページ)と書いています。

 

そして「我も我もと『俺がやった』と名乗り出」た、というエピソードも紹介されています(403ページ)。当時はそういう時代だったということです。

 

実は、「閔妃を刺し殺した刀」と言われる肥前刀が福岡市にあります。博多祇園山笠で知られる櫛田神社で保管しています。殺害に関わった日本人が奉納したものです。身近なことだなという感じがします。

もし他国軍隊が皇居に乱入し、皇族を殺害したなら――

最後の最後で誰が殺害したのかはっきりしていないのですが、乱入したのが日本人だったことは間違いありません。かけつけたロシア公使とアメリカ公使本人が、宮殿から刀を下げて出てくる日本人を目撃していて、言い逃れできる状態ではありませんでした。猛抗議を受けて、事件に関わった日本人をすぐに出国させています。

 

皇帝は、暗殺に加担したとして朝鮮人3人を処刑しましたが、それ止まり。熊本出身の安達謙蔵ら48人は日本で裁判にかけられましたが、証拠不十分で「免訴」。軍人も軍法会議で無罪となっています。これについて、驚くべきことに当時の日本人は大喝采を送ったのです。そういう時代だった、ということですね。

 

ロシアの南下を恐れるイギリスやアメリカは日本に好意的な対応を取ったこともあり、安達謙蔵はのちに政治家になりって、大臣を歴任します。植民地主義の時代に弱かった国の悲哀を感じます。

 

皇后自身は策謀好きで、ぜいたくが好きで、決して国民から好かれているとは言いがたい人でしたが、外国人から「国母」を殺された朝鮮人たちは大いに反発しています。これがどういうことか、考えていただきたいのです。

 

「東京で、武装した外国の軍隊が皇居に乱入し、皇族を殺害した」としたら――。

 

天皇制をどう思うかに関わらず、「それは許せない」となると思います。この問題は、韓国ではよく知られている話なので、日本人があまり知らないことが気になっています。独断暴走して外国の要人を暗殺した軍人たちが裁かれなかったという前例ができたわけですが、もしかすると日本の将来にも影響したかもしれません。

 

文庫版の解説で、歴史家の大江志乃夫さんは、「のちに一九二八年、日本が公式に承認していた中国の北京政府の大元帥(元首)張作霖を、出先の関東軍が軍司令官以下の謀議によって爆殺した事件の誘因になった、とさえいえる」と書いていました(文庫版、460ページ)。

 

軍人の暴走を容認した結果、大日本帝国の滅亡が用意されていた――歴史の皮肉にもなっているのではないかと思います。

「未来志向」と「悲しい歴史」と

「明成皇后を考える会」は2004年に熊本県で結成された団体ですが、熊本で毎年追悼式典を開催したり、加害者の子孫と韓国を訪問したりしています。事件から128年後の今年10月8日、3年ぶりの追悼式典が開催され、在日韓国人、日本人のほか、釜山外国語大学校の日本語学科の学生約30人も参加しました。

 

釜山外国語大学校の学生たち

 

会場には、熊本大学新聞の編集長、徳永慧さんが取材に来ていました。日本史学を専攻しているそうです。

 

熊大新聞編集長の徳永慧さん

徳永慧さん:近代の日本史の問題の一つで個人的に興味があることと、日韓の若者の考えや立場というものを、学生新聞で採り上げられたらなと思って取材に来ました。

神戸:知られてないですよね、今の日本の大学生には。

徳永慧さん:知られてないですねー。僕らみたいに学問としてやってたら知っているところもあると思うんですけど、普通の人は韓国に興味がある人でも知らないので、熊大生にちょっと知ってもらえるような記事を書けたらな、と。

帰宅して「熊本大学新聞デジタル」を読むと、会場にいた釜山外大の張舜興(チャン・スンフン)総長のコメントが載っていました。

「日韓交流はますます発展しており、若い世代も未来志向的な考えを持っている。一方で悲しい歴史も確かに存在する。今後、皆さんのような若い世代が正しい未来と友好関係を描く担い手になってほしい。この機会を交流会・追悼式だけでなく、学習の機会として欲しい」<韓国・釜山外大の学生が来熊 「日韓友好の未来へ」>10月8日15:50配信

本当にその通りだな、と思いました。ちゃんと受け止めていかないと「未来志向」は生まれていかないし、未来志向を持つためにはそうした手続きが必要でしょう。「閔妃暗殺事件」は、日本の近代史の暗い闇の一つです。僕らがしっかり考えていかなければいけないことだと思います。

 

神戸金史・RKB解説委員長

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この記事を書いたひと

神戸金史

報道局解説委員長

1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。