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1945年、石垣島で墜落したグラマン機に搭乗していた米兵3人が日本兵によって殺害された「石垣島事件」。BC級戦犯として裁かれた法廷写真に写る青年が誰かを特定するために、石垣島で関係者を探した。地元の長老から教えていただいた家を訪ねると、運良く息子さんに会えた。当時19歳だった父の写真。確認はとれるのか。一方、写真の人物であろうと推測される男性は、2001年にテレビ取材に応じていたー。
法廷写真の青年は誰?遺族にたどり着く
石垣島事件の判決が横浜軍事法廷で下されたのは、1948年3月16日。前年11月26日の初公判から、3ヶ月半に亘って審理が行われたことになる。19歳で判決日を迎えた竹富町鳩間島出身の小浜正昌ではないかという写真を見てもらうために、石垣島に住むご子息の家へ向かった。
家の前まで行くと、息子さんはちょうど外に出て家の周りの樹木や花に水やりをしているところだった。呼び鈴を押す私の姿に気付いて、門扉まで出てきてくださった。名刺を差し出して取材の趣旨を話したあと、早速、A4版に拡大した写真を差し出した。まっすぐ裁判官に目を向ける、死刑の宣告を受けている青年の写真だ。
19歳当時の父の顔は確認できるのか
しかし、息子さんは写真に見入ったあと、「うーん」とつぶやいた。小浜さんが81歳で亡くなられてすでに11年が経っている。しかも、写真に写る小浜さんはあどけなさの残る19歳の顔だ。息子さんが知る父のイメージとあまりに違いすぎて、「そうです」とは言い難い。「分からない」というのが正直な答えだった。ほかに見てわかる親族の方もいないようだった。
息子さんに連絡先を聞いてお家を後にした。遺族では確認は取れなかった。次の手を考えなければならない。
元戦犯として2001年に取材を受けていた
実は小浜さんは2001年にTBS系列で放送していた「筑紫哲也 NEWS23」で取材を受けていた。2001年と言えば、石垣島事件で殺害された3人の米兵のために、石垣島に慰霊碑が建立された年だ。この年の終戦特集としてこの慰霊碑建立が取り上げられたのは、建立をめぐって住民の中に対立する意見があったからだ。3人の慰霊碑を建てるというが、3人の米兵だけが被害者なのか。米兵だけの慰霊碑を造ったことが波紋を呼んでいた。そんな中で元戦犯として小浜さんは取材に応じていた。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。