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慰霊碑建立「すべきでない」
(小浜正昌さん)
「戦争は国と国との戦いで、殺すか殺されるかという中で石垣島事件は起きた。この3名の飛行兵は戦死したということで、糸満市にある沖縄県営平和祈念公園の『平和の礎(いしじ)』に名前が刻まれている。すると事件とは関係なく刻銘されているので、改めて石垣市で慰霊碑を建立する必要があるとは考えられないですね。この人たちが無差別攻撃をしたことによって亡くなった人たちはどうするのか。日本人がだいぶ殺されていますから、射撃と爆弾で。私はあくまでも建立はすべきでないと言わざるを得ない。」
慰霊碑が建立された土地は石垣市の所有地。実行委員会が作られて募金を集めたが、行政が主導した経緯がある。「八重山の戦争」(大田静男著 南山舎)によれば、石垣島で爆弾や機銃掃射で亡くなった人は113人。空襲によって倒壊・焼失した家屋は558戸となっている。さらに、空襲を避けるために疎開させられた地でマラリアが蔓延し、2496人が命を落とした。
「私は私なりの償いをしてきた」
(小浜正昌さん)
「米軍の攻撃によって亡くなった人のことを考えるとともに、石垣島事件では戦後、横浜軍事裁判で7人が死刑執行されているんです。私も判決は絞首刑だった。死刑から1年2ヶ月後に重労働5年に減刑されましたものの、私は私なりにそういう裁判の結果によって、償いはしてきたつもりです。」
3人の米兵の慰霊碑は、嘉手納基地の現役米兵が呼びかけをして、遺族も参加しての除幕式が執り行われた。小浜さんには実行委員長から連絡があったが、参加しなかった。
(小浜正昌さん)
「参加はしませんが、亡くなった人たちに哀悼の気持ちは持っています。人間の命の尊さ、重さに対してです。戦争という状況の中で、そういう事件に巻き込まれて、米兵3名に対しても申し訳ないなという気持ちと同時に、また日本兵も非戦闘員も亡くなっていますから、ともどもに冥福を祈るのは、普通の人間として当然のことじゃないですか。」
インタビューがすべて保存されていた
この特集企画でのインタビュアーは森口豁さんだった。小浜さんは森口さんの著書「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」の主人公、田口泰正が小隊長を務める隊にいた。
森口さんと小浜さんの詳細なやり取りが分かるのは、当時取材したテープがそのまま保存されていたからだ。「NEWS23」のこのインタビュー取材を担当したのはTBSの金富隆ディレクター(当時)だった。通常は放送用に編集した短い素材しかライブラリーに入れないのだが、元戦犯のインタビューが撮れたということで、取材テープを全部残しておいたという。
小浜さんは、戦犯として死刑を宣告された心境についても語っていたー。
(11月17日公開のエピソード17に続く)
*本エピソードは第16話です。
【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
もっと見る1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。