目次
刺殺は計画的なものか?
問 貴方が飛行士を突き刺す前、誰が飛行士の一番近くに立っていたか。
答 70名ばかりが現場にいた。自分が刺殺した際、榎本中尉は飛行士の左側数フィートの所に立ち、炭床兵曹長と北田兵曹長が右側に立っていた。
問 貴方が刺殺をやる前に、このような殺し方をすることが予め計画されていたのを知っていたか。
答 はい。
問 銃剣刺殺をやることを初めて知ったのは何時か。どんな徴候があったか。
答 初めて現場についた時に自分は20~30名の兵が小銃に剣を付けてきているのを見た。一方で、飛行士は杭に縛られていた。自分はK兵曹から「以前の空襲で死んだ田口隊の兵の仇討ちの為に、飛行士を銃剣刺殺する」と聞いた事を信じた。
問 ほかの兵は、刺殺は自発的にやられたか、否か。
答 いろいろの場合があるだろう。自分は知らない。しかし、榎本中尉が数名の者に「出て突け」「誰か模範を示せ」と言っているのを聞いた。
問 およそ何人くらいが刺殺に参加したか。
答 二十人ばかり。
問 あなたの陳述になお、付け加えることがあるか。
答 いいえ。
1947年2月3日の陳述書はここまでで、藤中松雄の署名で終わる。この陳述書の内容は、果たして、真実なのか。次回、もう一通の陳述書を検証するー。
(12月22日公開のエピソード22に続く)
*本エピソードは第21話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
もっと見る1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。