陳述書の真実は?「命令で刺した」それとも「自発的に刺した」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#22
グラマン機に搭乗していた米兵3人が殺害された「石垣島事件」で、BC級戦犯として死刑執行された藤中松雄の陳述書が、国立公文書館で見つかった。1通には、杭に縛られた捕虜を「苦から救いだしてやる」ために「自発的に刺した」と書いてあった。これは真実なのか。さらに2通目に書かれていたのはー。
目次
松雄の軍歴 佐世保から向かった先は
2通目の陳述書には、宣誓も日付もないので、いつのものかは分からない。問答形式になっているので、福岡なのか、東京なのか、取り調べで取られたものだ。最初に、松雄の軍歴が1通目よりも、更に詳しく書いてある。
松雄は太平洋戦争が始まった1941年12月に召集された。20歳の時だ。翌月、1942年1月に佐世保海兵団に入団している。厚生労働省に残る松雄の軍歴を、次男の孝幸さんに取り寄せてもらったが、そこには、佐世保海兵団に所属したまま、階級が少しずつ上がっていく記載しかなく、、作戦でどこへ行ったかは書かれていなかった。だが、陳述書には細かい情報があった。
事件の半年前 石垣島へ
松雄は、3ヶ月間の新兵教育のあと警備隊に配属。半年後には特別陸戦隊に編入された。12月に佐世保から諏訪丸に乗船して、ラバウル上陸。翌年1943年4月に潜水艇(番号不明)でニューギニアのラエへ。5月に同じくニューギニアのサラモアにいる時に病気になり、パラオに送られる。病名の記載はない。12月に病院船氷川丸で佐世保へ。海軍病院で療養し、翌年1944年の3月に退院した。その後、砲術訓練や迫撃砲の講習を受けたあと、11月に石垣島に赴任した。事件の半年前だ。
誰が事件に関わったのか?調べは進む
軍歴を聞いたあとは、事件の本題に入る。
問 処刑の現場に行った者の名と証跡をあげよ
答 自分の憶えている名は次の通り。幕田大尉 榎本中尉 炭床兵曹長、田口少尉、成迫兵曹・・・
1通目の陳述書との違いは、現場にいたほかの兵について聞いているところだ。
誰がその場にいたのか、松雄はここで、全部で15名の名前を挙げている。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。