目次
「今から、全員突くんだ」
(松雄の文書)
作業員が縛り終わると、北田兵曹長が出て行き、柱に縛られて、手も足も動かすことが出来ず、全く赤ん坊同様の人を、いつも持っている棒で、胸や腹を数回殴りました。この時、搭乗員の悲惨な痛苦は言語に絶する程であったでしょう。
榎本中尉はこの様にするのを見ながら、「今から、全員突くんだ」と命令し、なおかつ刺突の方法を説明している様でありましたが、私は、搭乗員の惨めな姿を見て、刺突の説明など全く耳に入らず、どんな事を説明したか私には判りませんでした。
自分だったらどんなであろうか
(松雄の文書)
その時、搭乗員は北田兵曹長から棒で胸や腹を殴られて、口か鼻からか血が流れて、非常に苦しんでいて、悲惨な姿はもう見るに耐えられませんでした。
この時、又、炭床兵曹長が出て行き、横から北田兵曹長同様、棒で数回殴りました。私は此の様な搭乗員の悲惨な取り扱いを目の前に見て、この様にされるのが自分だったらどんなであろうかと思い、私の気持ちは、この時全く萎縮した様な感じで、呆然としている時に、榎本中尉が突然、軍刀で私を指名したのを確信します。
私は突然の命令で、全く無我夢中で、側に居た兵隊の銃剣を手に採るなり、何処を突いたか覚えがない程、無意識の状態で突きました。
私は兵舎を出る時、こんな事になろうとは夢にも思いませんでした。
榎本中尉はなお、次々に注意しながら、「オイ突け、オイ突け、次」と命令していました。
命により、無意識のまま行動
(松雄の文書)
今、当時の事を冷静に考えますと、前方にいて呆然と惨めな搭乗員の姿を見ている時、狂気の如き怒声で突けと命令され、全く命により、無意識のまま行動したのです。
私はその後、何もする事なく、解散命令により、自己の兵舎に帰りました。
今村小隊長に現場の出来を詳細に報告しました。
この文書をみると、松雄が、取り調べ段階で「自主的に刺した」と言っていたのは、上司の榎本中尉をかばってのことだったようだが、「捕虜が殴られて惨めな有様になったのを見るに堪えなかった」というのは、本当の心情だったようだ。
「自分だったらどんなであろうか」
残酷な情景を目の当たりにして、捕虜の痛みを他人事にせずに想像した松雄は、呆然自失とした状態で、命令のままロイド兵曹を銃剣で刺したのだったー。
(エピソード25に続く)
*本エピソードは第24話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
もっと見る1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。