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これが真実?弁護人に宛てた松雄の文書~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#24

下士官、当直室前集合

石垣島警備隊施設配置図(米国立公文書館所蔵)

(松雄の文書)
巡検後、8時40分頃と思います。私は兵員室で休む支度をしていると、当直伝令がメガホンで「下士官、当直室前集合」という号令を聞き、私は当直将校か甲板士官の何か注意事項か訓示があると思い、今村小隊長に「行って来ます」と報告すると、「行け」と命じられたので、私はそのままの服装で当直室前に行きました。

当直室前には武装兵が10名程いて、指揮官と思いますが、何か言っている様でしたが、私にはわかりませんでした。自動車が1台あって10名程乗って居ました。その時、榎本中尉から「何しとるか、早く乗らんか」と命じられて、全く何があるのか知らずに乗りました。乗ってから車の中に搭乗員(捕虜)がいるのを見て、又、みんなが「今から搭乗員を処刑するそうだ」と話しているのを聞いて、初めて知り、私は搭乗員の処刑など夢にも思わず、兵舎を出てきて、また何処へいくのか全然知らず、当直室前に来て、前島中尉の命令で自動車に乗りました。

みんなが乗り終わると、前島中尉の指揮ですぐに前進し、車には30名程乗って、いっぱいで身動きも出来ない程でした。自動車は本部を出て、3分ほど進んだところで道路上に止まりました。

現場は草原の中

処刑の現場(髙澤弘明氏提供 米国立公文書館所蔵)

(松雄の文書)
後でわかりましたが、現場は道路より約30メートル位の、草原の中にありました。
自動車は道路上で止まり、その時、現場の方から誰か来て、乗っていた指揮官に何か言っていましたが、私にはわかりませんでした。

指揮官は乗員に下車を命じ、現場を指示し「行け」と命じられて行きました。現場には穴が掘ってあり、柱が一本立ててあり、何故立ててあるのか、私は想像も出来ませんでした。

何とも言えない気持ちに

石垣島事件で殺害された捕虜は3人。藤中松雄が現場に到着したときには、すでに1人目の処刑は終わっていた。2人目の捕虜が連れてこられたところから、松雄は現場にいた。

(松雄の文書)
1名の搭乗員を3名程の兵隊が連れて来ました。榎本中尉がその兵隊たちを指揮して、穴の前に座らせました。田口少尉が軍刀を持って横に立ちましたが、切ったのは人のかげで見ませんでした。しばらくして、また1名の搭乗員を3名程の兵隊(現場の作業員と思う)が連れて来て、榎本中尉がその作業員に命じて、「立っている柱に縛れ」と命じました。作業員は搭乗員を3ヶ所程縛りながら、数名の者が殴ったので、搭乗員の鼻から血が流れているのが懐中電灯の光りで見えました。

回りには武装着剣した兵隊が40名程と、武装しない兵隊が5.60名程いて、武装している兵隊は、ほとんど田口少尉の部下である様に思いました。K兵曹が着剣している兵隊たちに「戦友の仇だから、みんな突くんだ」と命じているのを聞き、私は何とも言えない気持ちでした。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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