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「例を見ぬ苛酷な判決」弁護人が判決に対して意見したこと~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#28

公正な態度を全く欠いた裁判

石垣島事件の判決関する意見(国立公文書館所蔵)

(ロ)本判決は被告人が良心に従い、公判廷で真実を披瀝した証言を一切しりぞけた。被告人に不利な証拠はことごとく採用しながら、有利な証拠には全く耳をふさいだとしか思われない。その理由についてはこの委員会が公正な態度を全く欠き、予断、偏見、被告人らに対する憎しみをもって審理に当たったと判断する以外には、考える事ができない。たとえ軍事裁判であっても、裁判である以上、この態度のゆるさるべからざることは、論を待たない。

取り調べでとられた調書が不本意なものであったことを、被告たちは法廷の証言台で次々に述べた。しかし、暴行、脅迫によって作られたその証拠を委員会が全面的に採用したことについて金井弁護士は、この戦犯裁判自体が、そもそも米軍の偏見に基づくものであり、公正なものではなかったと主張している。

異常な記憶力の保持者でなければ憶えていない

石垣島

 

次に金井弁護士は、事件後1~2年も経って、自分のことならまだしも、他人が何をしていたかを正確に憶えていることはあり得ず、間違いだらけの調査が進められたと指摘する。

(石垣島事件の判決関する意見)
(ハ)本事件の検察側調査は、事件発生後1年半から2年半の期間を経過して行われたものであり、しかも関係者はほとんど現地でマラリヤ病に罹り、高熱を繰り返している。その記憶の薄れていることは当然のことである。自己に帰することについては、ある程度の記憶の残存は肯定できるものの、他人の言動に帰する記憶の不正確さは、特に言及するまでもない所であるに、検察側は各被告人、その他の者に関する不正確な記憶を集めて調査を進めたのであって、誤謬(ごびゅう)の累積を結集している。微細にわたる、他人の言動に関する検察側の各被告人に対する口述書又は検察側証人の証言は、正確な記憶に基づいたものではなく、想像によるか、検察側の暗示、誘導に基づくものが極めて多いことは、常識のある者ならば直に看破できるものである。これを真正なものとするためには、彼らが異常な記憶力の保持者であることを前提としなければならぬ。

食糧難、輸送難、マラリヤ病蔓延を考慮すべし

石垣島を攻撃する米軍(ガンカメラ撮影・豊の国宇佐市塾提供)

 

石垣島事件が起きたのは、1945年4月15日。すでに沖縄戦が始まり、石垣島は連合軍から連日、空襲され、石垣島警備隊でも死者が出ている中でのことだった。金井弁護士はそこに言及し、量刑が重すぎると主張している。

(石垣島事件の判決関する意見)
(ニ)量刑について
本事件の当時は、味方の戦況極めて不利な時であり、かつ米軍の沖縄作戦が開始された後である。直属上級司令部との連絡は途絶え、連日の空襲により、闘志はみなぎり、全員、玉砕を覚悟して、時機の切迫した敵軍の上陸に対する防備に全力を傾けていたのである。この時、俘虜を入手した警備隊では、抑留しておくにしても、台湾などに押送するにしても、兵力の一部は割かねばならず、食糧難、輸送難、さらにマラリヤ病蔓延の事情がこれに加わっては、実際の所、その俘虜をもてあましたので、殺害を決意した心的課程は理解するに困難ではない。それか、違法であってもこの事情は量刑に当たり考慮されるべきで、内地の部隊、又は俘虜収容所などにおける同種事件と同一に論ずることは極めて苛酷である。ガダルカナル島における連合軍の日本軍人虐殺については、スミス検事自身、公判廷において、井上乙彦氏(石垣島警備隊司令)に対する訊問に言及している。委員会構成員も軍人である以上、この点に対する考慮を期待することは決して不当ではないと考える。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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