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「元気がないから兵隊に突かせる」処刑方法を決めたのは~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#31

BC級戦犯として横浜軍事法廷で裁かれた石垣島事件では、41人に死刑が宣告され、うち7人に絞首刑が執行された。死刑が執行されたあとに海軍少尉が書いた「石垣島事件の概要」。そこには事件当日、米軍機搭乗員の処刑の方法を決めるやり取りが記載されていたー。

法廷では「あいまいな証言」

 

法務省が1964年(昭和39年)に実施した面接調査で、23歳で死刑の宣告を受けた二等水兵は、この「石垣島事件の概要」を見せられて、次にように答えている。

「この資料を私は初めて読むのだが、このように系統立って命令を受け、事が進んでおりながら、公判廷における前島少尉の証言は、あいまいで検事につけ込まれた」

前島少尉は裁判では、誰が処刑を命じたのか、証言しなかったという。

「前島少尉が護送の方法などを供述するだけでなくて、処刑を命じたことを言い出せば、あれ程多くの者を有罪に巻き込むことはなかった。あいまいな証言のために、一同が不利になっていった。いまさら悔やんでも仕方がないことであるが『石垣島事件の概要』のような証言が出ていれば、問題はなかったと思う。前島少尉は、自ら受けた命令についての陳述を回避している。榎本中尉も然りで、彼はノイローゼ気味であった。彼らの責任回避にもかかわらず。結局公判中に、事件の経過として、命令したということになってしまったのであるが、私共下級者は自発的にやったとされた」

共同謀議で殺害・・大量の死刑宣告

石垣島事件の横浜軍事法廷(米国立公文書館所蔵)

 

元二等水兵の指摘は続く。

「上官がはっきり命令したと証言していれば、共同謀議にならないはずである。(1人目を斬首した)幕田大尉は、はっきり命令を伝えられたと証言できても、下士官はどこから命令されたか知らない。この知らないことをもって、検察側は共同謀議にくっつけた。」

なぜ、上官たちは命令したことを曖昧にしてしまったのか。それには理由があったー。

(エピソード32に続く)

*本エピソードは第31話です。

ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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