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「不本意ながら涙をのんで発令した」遅すぎた司令の方向転換~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#35

「自分がやらせた」証言はなかった?

上坂冬子著「遺された妻」中央公論社

 

この内容は、上坂冬子著「遺された妻 横浜裁判BC級戦犯秘録」(1983年 中央公論社)に掲載されている、井上司令が「処刑命令を下した根拠」と一致する。上坂氏が米軍の公判記録から書き出したものだ。井上司令は、1948年2月2日から証言台に立っている。文書の日付から追えば、1月のうちに弁護団と複数回打ち合わせたあと、法廷で「真実」を述べたということか。

裁判が始まってすでに2ヶ月が経過し、このタイミングでの「処刑命令」肯定の宣言は、ほかの被告たちには印象が薄かったのだろうか。事件当時、二等兵曹だった元被告は、1964年の面接調査で次のように述べている。

(元二等兵曹の面接調書 1964年)
「井上司令の法廷における証言について、自分がやらしたのだと受け取れる証言はなかった。責任を取らなかった。」

一方、別の二等兵曹だった元被告は、違う見解だ。

(元二等兵曹の面接調書 1967年)
「井上司令は法廷での証言ではじめて、『かねての大西長官からの口頭内示に基づき、私が処刑を命令した』と証言したものの、既に時期が遅すぎたように思う。」

証拠提出された「供述書」

石垣島事件の法廷(米国立公文書館所蔵)

 

石垣島事件で絞首刑になった田口泰正が主役の「最後の学徒兵 BC級死刑囚・田口泰正の悲劇」(森口豁著 1993年講談社)には、井上司令が証言台に立った1948年2月2日の法廷での様子が記されている。森口さんによると、これも米軍の公判記録に記載されているものだという。この日、1月29日に作成した井上司令の供述書が、弁護側から証拠提出された。内容は、「捕虜殺害を命令したのは自分である」という、弁護団と打ち合わせしたものと一緒だ。

つまり、井上司令が「自分が命令した」ことを認めた最重要部分は、供述書に書いてあった。

供述書の内容は、法廷で全文読み上げられる訳ではない。元二等兵曹が後の面接調査で、「井上司令が『処刑を命令した』と証言した」と述べているので、確かに言葉にした場面はあったのだろう。しかし、検察側の反対尋問は、当時の石垣島の食料事情や、遺体を戦後掘り起こして焼いた隠蔽工作にスポットをあてて質問しているようなので、命令があったか否は、この時点では、すでに争点にはなり得なかったのかもしれない。

外務省の公判記録に記載なし

1948年2月2日~4日の公判記録(外交史料館所蔵)

 

日本にも横浜裁判の公判記録はある。外務省の公文書館、外交史料館に収蔵されているものだ。石垣島事件の公判記録を見ると、井上司令が「命令があったことを認めた」重要な局面であるにも関わらず、井上司令が証言した2月2日から5日まで、証言内容の記載がなかった。

2月2日に、すでに提出されている自分の証拠が、意思に反して記載された内容になっているとして、相違点を指摘して訂正したとだけ書かれている。誰が証言台に立ち、委員会や検察側からの尋問が行われたということは書いてあるのだが、質問やそれに対する証言内容は、一切、書かれていない。意を決したはずの、井上司令の「方向転換」は、さしてインパクトもなく、むしろ、遅すぎるという印象を残しただけだった。

そして判決にも、全く反映されなかったー。
(エピソード36に続く)

*本エピソードは第35話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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