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戦争賠償の請求は放棄したはずなのに…またも浮上・日中関係の負の遺産

飯田和郎

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慰安婦問題に関して、日本政府を相手にした訴訟が中国国内で起こされた。「日本側からすると、頭の痛いテーマがまたひとつ増えた」。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長は言う。4月25日に出演したRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で語った。

「亡霊のように現れる」問題

戦後の日中関係を眺めていると、時折、出てくるテーマがある。表現は適切ではないかもしれないが、日本の外交官はかつて、この問題を「亡霊のように現れる」と言っていた。その言葉を今回、思い出した。

日中戦争当時、旧日本軍から性暴力の被害を受けたとして、中国人元慰安婦の遺族らが、日本政府に対し、謝罪と1人あたり200万人民元=日本円でおよそ4200万円の損害賠償を求める訴状を山西省高級人民法院に提出したことが、明らかになりました。慰安婦問題に関して、日本政府を相手にした訴訟が中国国内で起こされるのは、これが初めてです。

「かつて慰安婦だった」と自ら明かした女性は18人。この18人はいずれも亡くなっているが、残された家族が今回、代わって訴状を裁判所に提出した。中国からの報道によると、女性たちは、旧日本軍による拘束や暴行などによって、心身に被害を受けたと主張している。要求する賠償額は1人あたり日本円でおよそ4200万円だから、18人で総額7億5600万円の損害賠償請求だ。

そもそも、中国から日本への、賠償請求権は放棄されたはずだ。今から52年前、1972年に調印された日中共同声明で、当時の田中角栄首相らが北京を訪れ、中国との国交正常化に至った。この共同声明で「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と表明した。このこともあり、この共同声明の第5項にこのような文言がある。

中華人民共和国政府は、日中両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。

その20年前の1952年、台湾の中華民国政府と日本政府の間で「日華平和条約」が結ばれた。この中で、台湾の中華民国政府は日本への賠償請求を放棄した。北京の中華人民共和国政府も、のちの日中共同声明で、やはり日本への戦争賠償を放棄した。当然ながら、日本政府からすると、これには今日のテーマ、いわゆる慰安婦問題も含まれているという立場だ。

外交カードとしての戦後賠償問題

このニュースは、4月21日の夕方、中国の国営通信社「新華社通信」が流した。かなり詳しい内容で、それを見た私は驚いた。まず、中国の場合、このような敏感な内容について、裁判所に訴状を出すことすら、ハードルがある。日本のように、自由に裁判を起こすことは難しい。

もう一つ。中国の国営メディアは、日本のメディアとは異なり、中国共産党の考えを代弁する組織だ。この報道が出たこと、しかもその内容が詳細だったこと、ここに注目したい。訴状の提出とともに、中国当局が訴状を出すという行動を認め、そこには当局の思惑が働いていると考えてよいだろう。中国からすれば、日本へのカードとして、この戦後賠償問題を再び持ち出しだ、ということだ。

さらに気になるのは、韓国での動きだ。昨年、韓国の元慰安婦らが日本政府に損害賠償を求めた裁判で、ソウルの高等裁判所は、原告の請求を却下した1審判決を取り消し、1人あたり日本円で2300万円の慰謝料の支払いを日本政府に命じた。

今回の中国での訴状提出を報じた中国国営メディアの記事も韓国での判断を引用している。今回のタイミングは、自分の国で起した慰安婦訴訟で、日本政府が敗訴したことを踏まえ、中国でも動き出したようにも見える。

韓国政治を眺めると、今月行われた総選挙では、最大野党が過半数を上回る議席を獲得した。日本との関係改善を進めてきた尹錫悦大統領の求心力低下は避けられない。

今年1月、群馬県高崎市の県立公園にあった朝鮮人労働者の追悼碑を、群馬県庁が行政代執行で撤去した。日本でのこのような動きも、中国で報道されてきた。中国は次の大統領選挙をにらみながら、韓国接近、韓国の世論と共闘を図りたいところだろう。

世論も司法も「政治が決める」

新華社通信のウェブサイトには、読者の書き込みコーナーがある。「山西省で訴状を提出した」という詳しい記事のあとにある書き込みコーナーを見ていくと、「裁判を起こすのは当然だ」「日本は謝れ」などという声や、日本を汚く罵る言葉が並んでいる。

これも日本と違って、中国メディアのウェブへの書き込みは、自由にできない。当局が認めた内容の書き込みしか掲載されない仕組みだ。このことからも、当局の意向が働いているのではないか。

習近平主席は「中華民族の尊厳」を力説してきた。慰安婦問題は、まさに民族の尊厳が蹂躙された一大問題ととらえているかもしれない。中国国内においても、民族の感情として、容易に燃え上がる。それだけに今後、要注意のテーマではないだろうか。

中国の司法機関は、裁判所も含めて中国共産党の指導下にある。その中国の裁判所が訴訟を受理するかどうかが今後の焦点。今回の賠償請求訴訟を受理するか、しないかも、政治が決める。その判断、つまり政治判断も、日中関係の行方を占っていきそうだ。日本の外交官が「亡霊」と表現した問題が、さらに暗い影を落としているのは確かだ。

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この記事を書いたひと

飯田和郎

1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。