大佐が弁護人へ礼状「思い残す処なきまでし尽くした」ほかの被告たちは法廷で発言できたのか~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#36
3人の米軍機搭乗員を殺害したことに対して、41人の元日本兵に絞首刑が宣告された石垣島事件の戦犯裁判。1945年3月、結審した日。判決を前に司令の井上乙彦大佐は、弁護団に礼状を送っていた。「思い残す処なきまでし尽くした」と書いた井上大佐。死刑を宣告された他の兵たちも弁護人に同じ思いだったのかー。
判決前に書いた弁護団への礼状
井上乙彦大佐の礼状は、国立公文書館の資料の中にあった。石垣島事件に関わった弁護士の元から提供されたとみられる資料一式が綴じ込まれたファイルだ。閲覧できるのは、原本ではなく、コピーなので黒ずんでいる。それでも、流れるような達筆であるのは分かる。
日付は1948年3月9日。この日、横浜軍事法廷では、弁護人の最終弁論が行われて結審した。判決日は3月16日だ。前年の11月末から始まった裁判は、その冬のシーズン中、ずっと行われていた。まず「冬中の長い間、私達のご弁護ご指導に感謝」というところから始まる。礼状には、「弁護側口述書の作製や被告の個人主張」に配慮いただき、「一同、思い残す処なきまでし尽くしました事は、ひとえに皆様のご厚意の賜と深く感謝致しています」と書かれている。
(井上乙彦大佐の弁護人への礼状)
「最終弁論も終わりまして、私達はあと心静かに判決を待つばかりで御座います。一同を代表して厚く御禮申し上げます。 3月9日 井上乙彦 外一同」
「証言台にも立てず」思い残すことはなかったのか
4人の弁護人宛に、井上大佐は「代表して」礼状を書いた。しかし、部下の兵士たちがこの礼状と同じ思いでいたかというと、そうではない。
1964年に法務省の面接調査に応じた宮崎県在住の元二等兵曹は、法廷で証言できた下士官は数人であり、その他の者は「予め証言しない方が有利だから、証言台に立ちません」と、日本人弁護人から含まされて、誓約書にサインさせられていた、と述べている。この人は、弁護団にもかなりの不満を持っていて、そのような策が採られた理由は、「井上勝太郎副長を助けんがためにやったことである」と指摘している。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。