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いま、日本が関わった戦争を検証するうえで、加害責任を考えようという動きが、研究者の間で起きているという。「終戦の日」の8月15日、RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演した、飯田和郎・元RKB解説委員長は、過去の戦争と結びつきやすい、また、戦争について考える日に、加害責任についてコメントした。
中国国家主席が傾聴した橋本元首相の「靖国への想い」
「終戦の日」は政府が付けた正式名称でいうと「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となる。東京・九段の日本武道館で、正午前から「全国戦没者追悼式」が開かれる。日本武道館のすぐ隣には、靖国神社がある。毎年8月15日は、多くの人が訪れる。戦争遺族、超党派で参拝する国会議員、それに、さまざまな立場から、靖国神社にさまざまな思いを寄せる人たちがいる。
総理大臣を経験した人が靖国神社について語った、深く印象に残る言葉がある。橋本龍太郎氏だ。
「母の兄、年上のいとこ、小学1年の担任の先生……。みな出征される時に駅へ見送りに行った。『靖国の杜(もり)に帰って来るから、来てくれよ』と言ったきり、生きて帰らなかった方々もいた。私はそういう方々に頭を下げているのです」
「多くの日本人の、心の中にある靖国神社は、たいへん身近な人の率直な存在なのです」
これは橋本元総理が2006年、北京を訪れ、当時の中国トップ、胡錦濤主席と会談した際に発した言葉だ。私は当時、新聞社の北京特派員で、この会談を取材した。靖国神社は、日中関係のトゲの一つだが、橋本氏の言葉に、胡錦濤主席は真剣に耳を傾けたという。
橋本氏はこの会談の3か月後に亡くなっている。靖国神社に在り方について、いろいろな意見があり、きょう神社の内外で、自らの考えを訴える人もいるだろう。でも、橋本氏の言葉のとおり、多くの日本人の率直な思いのはず。戦後生まれの私も、きょうは、戦争で犠牲になった方々に、静かに黙とうを捧げたい。
「戦争に負けた」被害者ではなく加害者の意識を
79年前のきょう、昭和20年8月15日は昭和天皇の玉音放送が流れた日というイメージだ。皇居前広場で、ひざまずき、敗戦に涙にくれる人々の映像に象徴される。一方、当時は8月15日を過ぎても、中国各地や、アジアではまだ戦闘が続いていた。8月16日以降に、失われた命もたくさんあった。
日本がポツダム宣言を受諾する(=無条件降伏)と伝えたのは、前日の8月14日。また、日本が降伏文書に調印したのは9月2日だ。この9月2日こそ、国際法上においての「戦争が終わった日」となる。そして、日本を戦ったロシアや中国はこの9月2日の翌日=9月3日を、「対日戦争の戦勝記念日」に定めている
では、「8・15」とは、国際社会において、なんぞや? ということになる。そこできょうの本題だが、8月15日に「加害意識」について考えてみたい。
いま、日本が関わった戦争を検証するうえで、この加害意識、つまり自らの加害責任を改めて考えようという動きが、研究者の間で起きている。我々日本人にとって、過去の戦争と結びつきやすい、また、戦争について考える日として、きょう「8月15日」が存在する。
この日に存在する意味は、玉音放送に代表されるように、「戦争に負けた」という意識だ。敗戦に至る空襲、原爆の投下、さらには「身近な人を戦争で失った」「幸せな家庭が消え失せた」という悲惨な戦争体験…。市民一人一人の被害者としての意識が先立っているのではないか、という問いかけだ。
加害者としての日本を映し出す中国残留孤児
「被害者」の反対の「加害者」とは、たとえば、満洲事変。1931年、中国東北部で、旧日本軍が鉄道爆破を仕掛けたことをきっかけに始まった武力侵攻に代表される、日本が過去に行った加害者としての意識が欠けているのではないか、ということだ。
満州事変を例に挙げたが、遠い過去のことばかりが材料ではない。私なりに、現在も感じる「加害者としての事実」を、紹介したい。
大阪府内に住む、ある中国残留日本人孤児の女性を年に一、二回訪ねている。彼女は80歳。生涯、結婚せず、現在も公営住宅に独り暮らしだ。なぜ、この女性と知り合ったのか。私が北京に駐在していた時、取材テーマに、中国残留孤児の帰国問題があったからだ。
終戦前後の混乱で、さまざまな事情で、親と離れ離れになり、中国に取り残された日本人の子供たち。20数年前、当時は中国に住んでいたこの女性は、肉親を捜すために、日本を訪れる際に、私は彼女を取材した。以後、交流を続けている。
彼女に「自分の子供ではないか」「親戚ではないか」と名乗り出る人は最後まで、いなかった。ただ、彼女の親は、中国の大地で、生まれて間もない我が子と別れる際に、日本人の子供であることを示す証拠を残していた。彼女はそれを大事に持ち続け、それで彼女が日本人であることが証明され、永住帰国した。
帰国した時は、すでに50歳を過ぎていた。その年齢から日本語を習得するのはかなり難しい。現在も孤立しがちだ。私との会話は現在も中国語が中心だ。その女性の境遇を考えると、戦争被害者の一人に思える。そして、被害者であるとともに、彼女の生涯は、加害者としての日本を映し出していないだろうか。
国策として、当時の満州国(=現在の中国東北部)に入植した日本人は数知れない。確かに敗戦、そして混乱の中で、帰国した日本人は「戦争に巻き込まれた」という被害者の側面もある。だが、日本の大陸進出という加害行為がなければ、この女性の人生は違ったものになっていただろう。
身近なところに今も存在「侵略を正当化」するシンボル
もう一つのエピソードは、宮崎市の平和台公園に建つ「平和の塔」にまつわる。石造りの塔で高さ34メートル。だれでも上がれる台座からは、日向灘が望める。
今年6月に、この塔を見学してきた。なぜ、この「平和の塔」と、戦争加害が関係するのか。石造りの塔と説明したが、1700個以上の石を積み上げている。一つひとつが違う。それぞれの石に寄贈した団体の名前が刻まれており、そのほとんどが戦前、中国や朝鮮半島、台湾などに展開していた日本軍や、日本人居留民団の名称。石の表面に彫られた、その名称は、風化しているものばかりだが、軍隊の師団の名称が読み取れる。
この塔は、日中戦争が始まっていた昭和15年(1940年)11月に完成した。昭和15年といえば、神武天皇が即位して紀元2600年。それを祝う行事が日本中で開かれた。この塔を建てたのも、その関連行事だ。
塔の正面に「八紘一宇」という四文字が刻まれている。「世界を一つの家にする」を意味する。戦時中、日本が中国や東南アジアへの侵略を正当化するためのスローガンとして用いられた。この塔は「八紘一宇の塔」と呼ばれることもある。
塔を築いている石は、軍の協力で、日本が占領、または支配下にあった中国各地、アジア各地から集められたものだ。中には、中国の歴史的建造物の一部とされるものもある。中国側からは、返還すべきだ、という声も上がっている。
戦争が終わって79年が経っても、加害者としての歴史は、我々の身近なところに存在する。日本国内では「自分は戦後生まれだ。関係ない」「一体、いつまで謝らないといけないのか」という声は確かにある。戦争が終わって、来年で80年。戦争が遠くなれば、そんな声が高まるようにも思える。ただ、「戦争体験」=「被害者」という視点に比べて、「加害者」の視点、侵略した側にいたという視点は、やはり薄いのではないか。
それを、我々一人がそれをきちんと認識しないと、「加害行為を受けた側の心理」、つまり「中国やアジアの国々の人たちが、今も抱く意識」を理解できないし、お互いを真に尊重し合うことができないような気がする。だから、きょうは、こんなエピソードを紹介した。
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この記事を書いたひと
飯田和郎
1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。