1000人以上が犠牲となった福岡大空襲、今年の6月19日で77年を迎えます。空襲で家族6人を亡くし、その遺体を父親とともに運んだ福岡市の男性は、平和の尊さを次の世代に伝えるため、大切な家族の形見を戦争資料として初めて公開しました。
今から77年前となる1945年6月19日の夜、福岡市の中心部はアメリカ軍の爆撃機B29が投下した大量の焼夷弾で、一夜にして焼け野原となりました。犠牲者は死者と行方不明者あわせて1146人にのぼります。
今から77年前となる1945年6月19日の夜、福岡市の中心部はアメリカ軍の爆撃機B29が投下した大量の焼夷弾で、一夜にして焼け野原となりました。犠牲者は死者と行方不明者あわせて1146人にのぼります。
資料展は今年で12回目となりますが、その中で今回初めて展示されたのが、金属製の小さな板、荷物などを運ぶ大八車の登録標識です。提供したのは、福岡市に住む樋口泰助さん83歳。今から77年前、6歳の時に福岡大空襲に遭いました。
当時、樋口さんは両親と3人のきょうだい、それに祖母と一緒に中央区の簀子地区に住んでいました。父を除く家族6人で、自宅裏の防空壕に避難したものの、周囲の火が激しくなり危険な状態となりました。
樋口泰助さん「とにかく、恐ろしい火の海になる、B29の音が何十機と飛んでくるから、ゴンゴンゴンゴン鳴って響く。そういうのが耳に残って、周りはどんどん火が燃えだして」
当時、樋口さんは両親と3人のきょうだい、それに祖母と一緒に中央区の簀子地区に住んでいました。父を除く家族6人で、自宅裏の防空壕に避難したものの、周囲の火が激しくなり危険な状態となりました。
先週、福岡市東区で戦争の悲惨さや平和の尊さを訴える資料展が開かれました。会場に展示されたのは、福岡大空襲で街に落とされた焼夷弾や市民が使っていた防空頭巾など、戦争資料約100点です。
訪れた人「ぐっときました。全然知らなかったことが、生々しさが伝わってきて胸が詰まるような感じ」
臨月だった母親は、防空壕の中で出産し亡くなっていました。樋口さんは祖母と母親、姉と2人の妹、そして生まれたばかり妹、合わせて6人の遺体を大八車に載せて運びました。
旧簀子小学校に遺体を運んだ樋口さんと父親は、隣接する現在の簀子公園で遺体を焼きました。そこには今、福岡大空襲の供養塔が建てられています。
RKB永牟田龍太「樋口さんは家族6人の遺体を大八車に乗せ、旧簀子小学校に運びました」
樋口泰助さん「親父が引っぱっていくから、後ろから押して後押ししていった。死体はずらっと並べていた、今の赤煉瓦の下に」
旧簀子小学校に遺体を運んだ樋口さんと父親は、隣接する現在の簀子公園で遺体を焼きました。そこには今、福岡大空襲の供養塔が建てられています。
資料展は今年で12回目となりますが、その中で今回初めて展示されたのが、金属製の小さな板、荷物などを運ぶ大八車の登録標識です。提供したのは、福岡市に住む樋口泰助さん83歳。今から77年前、6歳の時に福岡大空襲に遭いました。
樋口泰助さん「とにかく、恐ろしい火の海になる、B29の音が何十機と飛んでくるから、ゴンゴンゴンゴン鳴って響く。そういうのが耳に残って、周りはどんどん火が燃えだして」当時、樋口さんは両親と3人のきょうだい、それに祖母と一緒に中央区の簀子地区に住んでいました。父を除く家族6人で、自宅裏の防空壕に避難したものの、周囲の火が激しくなり危険な状態となりました。
家族6人の遺体を運んだ大八車はもう残っていませんが、標識は「6人の形見」として大切に保管されてきました。しかし、83歳の樋口さんは去年、病に倒れたこともあり、平和の尊さを広く伝えるためにも、大切な標識を戦争資料として提供することを決めました。
樋口泰助さん「最近、ウクライナ侵攻のニュースがテレビに出たら、自分の記憶を思い出して早く収まらないかと思う。私たちは死んでいくけど、残ったものにあんな経験させたくない。戦争は絶対あっちゃだめですね。どんなことがあっても戦争だけは」
樋口泰助さん「おばあちゃんは私を防空壕から出すとき、『早く出ろ、おまえは男の子やから、男の子は国の宝やぞ』と言って無理矢理押し出された」樋口さんは別の防空壕で一夜を過ごした後、父親と一緒に家族の救出に向かいましたが、自宅裏の防空壕は焼夷弾が直撃していました。
樋口泰助さん「焼けて先だけ残っていたスコップで掘って、母親とおばあちゃんときょうだい3人を掘り出した。お袋の遺体から、父親がエプロンをはぎとって何か包んでいった。『なんね、それは』って私が聞いたんですけど、『うん』って言うくらいで何も言ってくれなかった。後になって『あれは赤ちゃんやった、防空壕の中で生まれとった』って」
臨月だった母親は、防空壕の中で出産し亡くなっていました。樋口さんは祖母と母親、姉と2人の妹、そして生まれたばかりの妹、合わせて6人の遺体を大八車に載せて運びました。
RKB永牟田龍太「樋口さんは家族6人の遺体を大八車に乗せ、旧簀子小学校に運びました」
樋口泰助さん「親父が引っぱっていくから、後ろから押して後押ししていった。死体はずらっと並べていた、今の赤煉瓦の下に」旧簀子小学校に遺体を運んだ樋口さんと父親は、隣接する現在の簀子公園で遺体を焼きました。そこには今、福岡大空襲の供養塔が建てられています。
樋口さんの自宅には、家族の死亡証明書が今も残されています。死亡原因の欄には、戦争によって亡くなったことを示す「戦災」の2文字が書かれていました。
樋口泰助さん「悲しいのは悲しかったから、泣くのはしょっちゅう泣いていた。悔しいですね、いま考えると。お袋も35歳ですよ」
家族6人の遺体を運んだ大八車はもう残っていませんが、標識は「6人の形見」として大切に保管されてきました。しかし、83歳の樋口さんは去年、病に倒れたこともあり、平和の尊さを広く伝えるためにも、大切な標識を戦争資料として提供することを決めました。
樋口泰助さん「最近、ウクライナ侵攻のニュースがテレビに出たら、自分の記憶を思い出して早く収まらないかと思う。私たちは死んでいくけど、残ったものにあんな経験させたくない。戦争は絶対あっちゃだめですね。どんなことがあっても戦争だけは」
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