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北京五輪の開催地であった77年前の“邦人4万人脱出”を知っていますか?

北京オリンピック・ジャンプの男子個人ノーマルヒルで小林陵侑選手が日本人第一号の金メダルを獲得した。そのジャンプ競技などが行われている張家口(ちょうかこう)では、今から77年前、日本軍の司令官が命令に背いてソ連軍と戦闘を続け、在留邦人4万人を脱出させて、生命・財産を救ったという話がある。東アジア情勢に詳しい、飯田和郎・元RKB解説委員長が、RKBラジオ『櫻井浩二インサイト』で解説した。  

オリンピック会場の街から考える現代史の1ページ

張家口は北京市の北西180キロにある、河北省に所属する都市だ。万里の長城の外側に位置し、すぐ北側は内モンゴル自治区と接している。万里の長城は、北方からの異民族の攻撃を守るために造られたことはよく知られている。それが証明するように、張家口は中国の長い歴史において、民族間の係争地でもあった。

その張家口には、日清戦争などを経て中国大陸に侵出した日本の駐留軍が、1945年8月のポツダム宣言の受諾・日本の降伏まで拠点を置いていた。

よく知られているように、終戦直前の1945年8月9日、ソ連が突然参戦し、国境を越えて旧満州や、現在の内モンゴルから中国に攻め入ってきた。その報せを聞いた中国各地の邦人は、中心都市の一つで、軍の司令部があった張家口に殺到。当時、張家口に居住する邦人は2万人を超えていたが、終戦直前には約4万人に膨れ上がっていた。

ソ連軍は張家口のすぐ近くまで迫っていた。同時に、ポツダム宣言を受諾した本国からは、全ての日本の軍隊に対して「速やかに武装解除するように」という命令が下されていた。だが、張家口の司令部トップは武装解除しないことを決意する。福島県出身、当時54歳の根本博という司令官だ。

「満州の悲劇を繰り返さない」命令に背いた根本の行動

根本は部下を集め、こう宣言した。「責任は、司令官たるこの根本が一切を負う!」ソ連軍が陣地に入ってきた場合、戦闘を命じ、邦人を守るよう指示した。

根本は、満州で起きている邦人の惨劇を知っていた。ソ連軍の侵攻は日本降伏後も止まず、満州に残された日本人に対する財産の略奪や女性への性的暴力、そしてのちのシベリア抑留につながる邦人の拘束が続いていた。「ここで投降すれば、張家口でも満州と同様の悲劇が起きる」根本はそう考えた。

8月19日、ついにソ連軍との戦闘が始まった。根本率いる日本兵は約2500人、ソ連側はその10倍以上とされた。根本の目的はただ一つ、侵入してくるソ連軍と戦って時間稼ぎをし、居留民を安全に引き上げさせることだった。戦闘は三日三晩続き、その間に4万人の日本人は、港がある天津へ脱出できた。彼らは蒋介石率いる中国国民党軍に投降ののち、日本への引揚船に乗ることができた。

邦人の脱出を確認したのち日本軍は撤退し、ソ連側も停戦したが、この戦いで日本兵80名あまりが命を落とした。また帰国の途中、伝染病にかかるなどして亡くなる人もいた。ただ、張家口でソ連軍の行為によって犠牲になった民間人はいない。武装解除しないという根本の判断、同胞を救うためにという部下たちの戦闘がなければ、どうなっていただろうか。

「命令違反」より「軍隊が存在する意義」を示す

根本たちの行動が示すものは「軍隊が存在する意義は何か」ということだ。根本や根本に信頼を寄せる部下たちは「軍隊とは国民を守るのが原点」と考えたのだろう。翻って今日起きている、森友・加計問題、イラク日報などの公文書改ざん・隠ぺい、最近では国交省の統計不正もあった。上意下達、忖度、前例踏襲…こうしたことは、公務員だけでの話ではない。組織の中で、上役や周囲の顔色ばかり気にして、本来果たすべき役割を忘れた行為があふれていないだろうか。「何をすべきか」「何が正しいのか」という判断は、時代を超えて、一人ひとりに問われ続ける。

冬の北京オリンピック。競技を観戦し、日本選手への応援をする一方で、会場の張家口で77年前に起きた事実を学ぶ機会にしたい。

飯田和郎(いいだ・かずお) 1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。

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