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哀悼・中西太~色あせぬ「怪童伝説」RKB元解説委員長・飯田和郎の回顧録

ラジオ

「怪童」と呼ばれた強打者で、プロ野球・西鉄ライオンズで活躍した中西太さん(90)が、5月11日、心不全で亡くなった。RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』に出演した、飯田和郎・元RKB解説委員長は「驚きが悲しみを伴って伝わってきた」と、往年の名選手を悼んだ。

3年連続日本一当時の主力選手

中西太さんは、高校から入団したプロ1年目で新人王。18年間の現役生活で、ホームラン王5回、打点王3回、首位打者2回。それに三塁手として、パ・リーグのベストナイン7回を記録。1955年にはパ・リーグMVPに選ばれた。

中西さんに先立ち、大下弘、稲尾和久、豊田泰光、仰木彬といった西鉄黄金時代のメンバーが世を去っている。中西さんの逝去で「九州にあったライオンズ」がさらに遠いものになった。

西宮球場で聞いた九州の方言のヤジ

私(飯田)は兵庫県内を走る阪急電車の沿線に住んでいた。その影響か、ずっと阪急ブレーブス(現オリックス)のファンだった。阪急の本拠地、西宮球場にも、よく父親と行っていた。関西人の私と、社会人になった初めて暮らした九州との出会いは、実は、西宮球場に遠征でやってくる西鉄ライオンズだった。

昭和40年代。当時、西宮球場はいつ行っても、ガラガラ。今のパ・リーグとはまったく違った。スタンドがガラガラだから、お客さんのヤジがよく通る。これも今と違って、ヤジは選手の個人攻撃のような内容が多かった。ガラガラのスタンド。数少ない客の柄も悪かった。

対戦によって、遠征してくるチームも変わる。その中で――。あるチームは、応援するファンがスタンドから飛ばすヤジは、関西弁でもない、標準語でもない、聞いたことのない言葉だった。子供ながら、すごく不思議に思っていた。

兵庫県には阪神工業地帯がある。そこで働く九州出身の人たちが、西鉄ライオンズが関西へ遠征してくると、スタンドに集まり、お国言葉で、九州の方言でヤジを飛ばす。

ちょうど、九州を代表する石炭産業がエネルギー革命で斜陽に。筑豊や三池。炭鉱が次々と閉山していった時期。炭鉱離職者もあふれた時期。家族で、ふるさと九州を離れ、阪神工業地帯に、新しい仕事を求めてきた。政府も炭鉱離職者の再就職・生活の安定を後押ししていた。私が通う小学校にも、九州から転校してきた同級生が何人もいた。

当時、高度経済成長期と言われたけれど、日本社会の断面が表れていたのが、西宮球場のスタンドであり、そこに陣取る西鉄ファンだった。九州出身者は、ライオンズがやってくると、九州の言葉。その方言で、ヤジを飛ばし、また顔なじみになった九州の人たちとしゃべっていたのだろう。遠い関西で、慣れない仕事をしていても、球場に来て、九州人としてのアイデンティティを確かめ合っていたのかもしれない。

ベンチにいる中西監督が一番のスター

中西さんは昭和44年(=1969年)に現役を引退したが、現役時代の後半は、監督と選手を兼務していた。私が西宮球場に通っていたころは、すでに全盛期を過ぎ、また、監督兼任だったので、ベンチにいることが多かった。

自身でピンチヒッターとしてグラウンドに出てきたり、監督として選手の交代を、告げに出てきた中西さんを、今もしっかり覚えている。上背はないけど、お相撲さんのような分厚い胸、大きなお尻。肉の詰まった体躯はほかの選手とまったく違った。

三塁側のベンチから中西太さんが登場すると、西鉄ライオンズのファンが盛り上がる。衰えても九州出身のファンにとっては大スター。ベンチにいる監督が一番のスターだった。それが、西鉄ライオンズへの私の好奇心を高めた。でも、チームは弱かった。

中西太さんの伝説の記事

亡くなったことで、中西太さんの数々の伝説が報道されている。飯田も「お宝」を紹介したい。

就職するまで、関西に住んでいたのに、ずっと西鉄ライオンズが気になっていた。関西にいた時から、西鉄ライオンズというチーム、在籍した選手に関する本や雑誌を集めてきた。きょうは、そのうち2つの記事を紹介したい。

ひとつ目。「文芸春秋社」が発行する雑誌 スポーツグラフィック「ナンバー」 1980年(=昭和55年)11月5日号。この号は西鉄ライオンズの特集。タイトルは「カムバック! 幻の西鉄ライオンズ」。朝日新聞でライオンズを担当した元記者の方が文章を書いている。

昭和27年春のことだった。福岡の西鉄球団事務所は、選手たちが鹿児島・鴨池のキャンプに入っていたためか、ガランとして人気がなかった。当時、西鉄ライオンズ担当の記者だった私は、何かの用事があって、球団事務所にいた。

そこへ、ひょっこり、一人の高校生が現れた。ボロボロの学帽を被っていた。その下では、でっかい丸顔が、赤みをおびていて、健康そのものといった風だった。学生服は巨体を被っていて、いまにもボタンがちぎれ飛びそう。

肩にはボストンバッグと信玄袋を振り分けに担ぎ、両手に下げた果物カゴを差し出して「これ、おみやげです」と、ちょっと緊張した声で言った。これが私の初めてみた中西太である。お世辞にもスマートとはいえないゴツイ学生だった。

この時の印象があまりにも強烈なものだったのか、誰いうとなく、中西のアダ名は“振り分け荷物”になった。

中西さんは「東京六大学で野球がしたい。早稲田で野球がしたい」と希望していたが、家庭の事情でプロ入りした。豪快なバッティングのイメージからは意外だが、優しい、優しすぎる性格だったと言われる。不安いっぱいに、初めての土地・博多へやってきた様子がわかる。そして、中西さんはすぐに鹿児島でのキャンプに合流した。記事は続く。フリーバッティングの場面。

入団一年生だったので、おとなしくしていたのだが、三原監督に、「中西、行け!」といわれてバッターボックスに立ってからが、ものすごかった。当時のそうそうたる西鉄の主力ピッチャーから、いきなりホームランを打ってみせたのだ。ほぼ全員の投手から5本のホームランを奪っている。 大下がびっくりして私に「あれ、ほんとに高校だけ、出たんかい?」と、なかば、あきれ顔で聞きに来たものだった。こうして、“振り分け荷物”は、たった1日で、「あいつは、大したバッターバイ」と全員の注目するところとなった。

「あきれ顔をした大下」とは、当時の中心選手で、バッティングの天才といわれた大下弘さん。このキャンプから、中西さんの伝説が始まった。

黄金時代の選手全員が歌った球団歌

もう一つの「お宝」を紹介する前に、曲を聴いてほしい。中西太さんも歌っている球団歌「西鉄ライオンズの歌」だ。

この球団歌は、中西さんや、鉄腕・稲尾和久さんら、西鉄ライオンズ黄金時代の選手が歌っている。1番の歌詞は収録に参加した選手全員、2番は、中心選手の一人だった豊田泰光さんがソロで歌っている。

レコーディングされたのは昭和33年(=1958年)3月。西鉄ライオンズは、前の年に、巨人を2年連続で破って日本シリーズ2連覇したあと。この昭和33年もパ・リーグで優勝、日本シリーズでも勝った。今も語り継がれる「日本シリーズ3連覇、巨人を3年連続撃破」を達成した。

「西鉄ライオンズの歌」レコーディング風景(にしてつWebミュージアム)

当時の写真をみると、中西太さんは、選手たちの最前列でマイクに向かっている。ところで、このレコーディングはどこで行われたかご存知だろうか?

正解は福岡市中央区渡辺通にあったRKB毎日放送のスタジオだ。今から65年前のこと。昔は、いろいろユニークなことをやっていた(感心)。

中西伝説を記したもう一つの「お宝」

「ベースボール・マガジン社」が発行する「別冊・週刊ベースボール」。昭和53年(1978)12月のタイトルは「史上最強の球団 あゝ! 西鉄ライオンズ」。やはり西鉄の特集だ。この2か月前に、西武ライオンズとして、球団が九州を離れ、埼玉へ移った=九州からプロ野球球団が消えたことも背景にある。

この特集号で、西鉄のライバルだった、南海ホークスの元エースピッチャー、杉浦忠さんが語っている。杉浦さんはのちに、ホークスが九州に移って福岡ダイエーホークスが生まれた時の初代監督だ。

黄金時代の西鉄ライオンズの強力打線の一人ひとりの選手について、思い出を述べているが、最初に挙げたのが、中西太さん。一部を抜粋する。杉浦さんはこう語っている。

私は現役時代、グラブをはめた時、左手のひと差し指だけは、グラブの外に出していた。これは打球を捕った時、指の衝撃を少なくするためのものだが、中西さんを打席に迎えると、必ず全部の指を、グラブの中に入れることにしていた。

なぜなら、仮にピッチャーライナーがきたら、その打球があまりにすごいために、グラブが、はじき飛ばされてしまうかもしれないから。指をキチンと中に入れて、捕球の時に手からグラブがはじかれないように心がけたのである。

中西太さんのスイングの速さ、打球の威力については、いろいろな話がある。有名なのは、「ファウルチップすると、ボールの皮の焦げる臭いが、周囲にプンと匂った」、さらには「ピッチャーライナーだと思ったら、打球はセンターの頭を越えてバックスクリーンに入った」…。

数々の名勝負を演じた杉浦忠さん。「中西選手の時だけ、グラブの中に、5本の指すべてを入れた。なぜなら、キャッチした時、グラブがはじき飛ばされないように」と語る。これも伝説。こんなすごい対戦が繰り広げられていた時、生で観たかった。

「中央」に対して「九州」を主張した野武士軍団

中西太さんは、残した成績もすごいが、全盛期は短かった。どちらかというと「記録に残る選手」より、「記憶に残る選手」だった気がする。

中西太さんがプロ生活で、打ったヒットは、全部で1262本。だから、これだけのスラッガーなのに、2000本以上のヒットが入会条件の「名球会」に入っていない。だけど、生煮えではなく、完全燃焼ではないか。「強烈に、記憶に残る選手」だった。

「野武士軍団」と呼ばれ、豪快で、個性派ぞろいだった西鉄ライオンズの黄金時代=今から70年前。あのころの西鉄ライオンズは、「中央」に対して、精いっぱい「九州」を主張していた。今の九州、福岡とはまた違った方法で、輝いていた気がする。その中心に中西太さんがいた。ご冥福を祈る。

◎飯田和郎(いいだ・かずお)
1960年生まれ。毎日新聞社で記者生活をスタートし佐賀、福岡両県での勤務を経て外信部へ。北京に計2回7年間、台北に3年間、特派員として駐在した。RKB毎日放送移籍後は報道局長、解説委員長などを歴任した。

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