黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#10
BC級戦犯として28歳で処刑された藤中松雄について調べるために、東京の国立公文書館へ。「石垣島事件」に関して公開されていたファイルは7冊。綴じられていた文書は、被告名がすべて黒塗りされた上で、それぞれアルファベットがふられていた。
最後の死刑から50年後 公文書館へ法務省から移管
東京・千代田区にある国立公文書館は、最寄りの竹橋駅から歩くと、東京国立近代美術館の先にある。1階の受付で資料閲覧の手続きをして、閲覧室へ上がる。検索用の端末で見たい資料を特定して紙を出すと、書庫から資料をワゴンで運び出してきてくれる。
石垣島事件に関する資料を探そうと検索したところ、7冊のファイルが公開されていた。
この公文書館に戦犯に関する法務省の文書が移管されたのは、1999年から2000年にかけてのこと。1950年にスガモプリズンで藤中松雄を含む最後の死刑執行が行われてから実に50年後のことである。
1956年9月4日、法務省は戦争裁判に関する資料を調査、収集、整理して後世に残すことを目的に「戦争裁判関係資料収集計画大綱」を省議決定した。そして5年後、「資料の収集整理(重要なものについて編纂、印刷)にとどめ、戦争裁判の批判検討はしない」という方針を決定した。元海軍大佐で戦後第二復員省に勤務した豊田隈雄が、元陸軍大佐の井上忠男、戦犯釈放事務を行っていた元中央更正保護審査会委員の横溝光暉とともに、裁判関係資料の収集に尽力した。豊田らは弁護人所持資料を入手、生存する戦犯や弁護人・証人・参考人等への聞取りを精力的に行った。
(抜粋・国立公文書館のウェブサイトより)
黒塗り・・・アルファベットの人物は誰?
7冊の閲覧用ファイルに綴じられている資料は、原本ではなくすべてコピーだった。写真が貼ってある資料もあるが、コピーされているので黒くつぶれて何が写っているのかは良く分からない。資料も分類されたり、見出しがつけられているわけではなく、弁護士事務所にあったものをそのままの並びで綴じたような感じなので、一枚ずつ内容を確かめて何の文書かを判別していくという作業になった。口述調書や、陳述書など被告人が事件について詳細に述べている記録もある。しかし、資料を読み込むには大きな障害があった。個人名を伏せるための「黒塗り」だ。石垣島事件の被告名簿が出てきたが、被告の名前はすべて黒塗りで、アルファベットがふってあった。
実は、この名簿の中から藤中松雄を特定するのは簡単だった。石垣島事件の被告は46人と大量だが、本籍地の県郡名は黒塗りされておらず、しかも本籍地が「福岡県嘉穂郡」だったのは、松雄ひとりだったからだ。公開にあたってどの部分を黒塗りにしたかという基準は、個人名は隠したいものの、遺族などの関係者にはわかるようにヒントを残したのではないかと思った。しかし、本籍地から松雄にふられているアルファベットが特定できても、調書に出てくる他のアルファベットが誰かということも特定しないと、命令系統をはじめ、誰がどのように関与したのかが分からない。つまり、すべてのアルファベットを割らないと事件や裁判の全体像をつかむことができないのだ。ため息をつきながら黒塗りの文書ばかりかと思ってファイルのページを繰っていくと、たまに一か所の黒塗りもない実名の名簿のようなものも混じっていた。こうした手がかりをみつけて、ひとりひとりアルファベットの人物を割っていくしかない。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。