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黒塗りの“被告名簿”国立公文書館のファイルから出てきたもの~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#10

BC級戦犯として28歳で処刑された藤中松雄について調べるために、東京の国立公文書館へ。「石垣島事件」に関して公開されていたファイルは7冊。綴じられていた文書は、被告名がすべて黒塗りされた上で、それぞれアルファベットがふられていた。

国立国会図書館のマイクロフィルムに残されたリスト

国立国会図書館(東京・千代田区)

 

このアルファベットの人物を割る作業に有用な資料を国立国会図書館で見つけた。ポツダム宣言受諾後、日本で占領政策を行ったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)関連の資料は、国立国会図書館の憲政資料室にマイクロフィルムで保存されている。石垣島事件に関する資料を検索してヒットしたマイクロフィルムを調べたところ、石垣島事件の被告人リストが出てきた。

 

藤中松雄の記録がある被告人リスト

 

書類の日付は1949年1月13日。石垣島事件で横浜裁判にかけられた46人の元日本兵全員の名前が英字で並んでいる。それぞれの被告について基礎的な情報が書かれていて、松雄の欄には、住所や既婚であること、同居家族は継父、継母(注・松雄は婿養子のため妻の両親)妻、息子二人とある。そのほか初公判や判決の日付、判決の量刑(絞首刑)もある。英文ではあるものの、黒塗りは一切ないので内容がよく分かる。

横浜軍事法廷 死刑判決は再審査が行われた

死刑の宣告を受ける石垣島警備隊司令の井上乙彦大佐(米国立公文書館所蔵 森口豁氏提供)

 

石垣島事件は、この書類が作成された10か月前、1948年3月16日に判決が言い渡された。46人の被告のうち41人に死刑が宣告された。横浜裁判の法廷写真を入手した日本大学の高澤弘明准教授によると、この書類は、アメリカ第8軍の法務部が判決内容を再審査するために作成したものだという。第8軍が裁いたということは、つまり軍人が裁いたということ。必ずしも法律の専門家が下した判決ではないので、法務部が内容をチェックしたという。特に死刑判決の場合は、必ず再審査が行われた。国立公文書館で入手した巣鴨委員会による戦犯裁判のまとめ資料によると、石垣島事件では二回の再審査で減刑が行われている。UP通信が伝えたところによると、最後の審査ではマッカーサー元帥が6人を減刑した。変更の理由は「それら6名の罪状は死刑に相当しない」ということだった。これで最終的に減刑が叶わなかった松雄ら7人の死刑が確定した。

このリストの情報をまず突き合わせて、国立公文書館の黒塗り資料の解読を始めた―。

(10月6日公開のエピソード11に続く)
*本エピソードは第10話です。

【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

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1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

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この記事を書いたひと

大村由紀子

RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。

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