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戦争報道や震災報道の“分かりやすい物語”に紛れ込むウソ

ウクライナ戦争やガザ侵攻の報道を目にしない日はない。「このところ、民族や歴史を『物語』にする怖さについて書いている記事をよく見かける」と警鐘を鳴らすのは、RKB毎日放送の神戸金史解説委員長だ。10月31日放送のRKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で“分かりやすい物語”に紛れ込むウソについて触れ、メディアとして自戒した。

「物語」を作る恐ろしさ

RKBテレビの番組で、ある人のオンラインインタビューを取り上げたことがありました。その本人から「放送自体は良かったんだけど、ウェブサイトにアップした時に、ちょっと印象が違うんじゃないか」と注文が届いたことがありました。

 

大きな間違いではないのですが、語ったことの一部だけが活字になると、「これだけしか言わなかったように見えちゃう」と感じたようです。取材して放送に出していくという仕事は、一部を抽出していくことでもあります。

 

ただ、いつも若い記者やディレクターに言っているのは、「削ぎ落としてしまったものがインタビュー以外のところで原稿に活きるような感じで少しでも反映されていると、絶対文句は来ないよ」ということです。

 

「この言葉を言ってくれて、ありがたい!」と、都合のいいところだけを使うと、こういうことが起こるんだよ、という話をしています。僕らメディアに対する批判として、「ストーリーを作る」という言葉がよく出ます。

朝刊に見つけた「物語」という言葉

「物語」という言葉が、10月31日の朝刊にいくつか出ていました。

 

(1)朝日新聞「ひと」欄=写真・文 太田啓之 戦艦大和を小学5年生の時から70年間追い続けてきた原勝洋さん(81)

 

在野の研究者として、様々なことを明らかにして来た方です。「軍人を英雄視したり悲劇を強調したりする『戦争の物語化』はおこなわず、日米両国の資料を駆使して事実を求めることに徹してきた」と書いてありました。

 

こういう姿勢は、すごく大事です。「こうあってほしい」「物語を作りたい」が先に立つと、事実からずれてきます。

自分たちこそ弱者という「物語」

(2)毎日新聞3面 企画「人を動かすナラティブ」 弱者の論理 戦闘正当化 イスラエルとハマス 互いに「被害者」自認=専門記者・大治朋子

 

「ナラティブ」とは、「物語」「語り」という意味で、このところ、ちょっとしたキーワードとなっています。

 

この記事には、イスラエルは「弱者」としてアラブの大国とずっと戦ってきた、あります。その根底にはユダヤ教の旧約聖書にある「ユダヤ人の羊飼いダビデVS悪の巨人ゴリアテ」の戦いがありました。

 

弱いダビデが勝ってイスラエルの国王に就任した、という「物語」を、ユダヤ人はずっと持っているわけです。自分たちも、アラブの大国と戦っていて、「アラブの憎悪の海に浮かぶ孤島だと感じている」と。でも実際は武力をしっかり持っていて、近隣パレスチナの人々を圧倒しているわけですね。もちろんアラブ人たちも、「弱者」として「こんなことになって、戦うしかない」という状況に追い込まれています。つまりここでは、「物語」としての弱者を両方が掲げていることになるわけですね。

 

記事には、「真のダビデがいるとすれば、それは厳しい日常、過酷な戦火の中で懸命に家族を守り、生き抜く双方の市民だ」とも書いてあります。つまり、「自分たち」と「敵」ではなく、それぞれにダビデ=弱者がいる、という記事なのです。わかりやすい「物語」に単純化していくと、複雑なことが落ちていってしまいます。わかりやすい言葉は怖いのです。

フェイクを「物語」にする人

もうひとつ、10月30日付の日経新聞ネット記事です。

 

(3)歴史を相続放棄する国でいいのか =井上亮編集委員

 

関東大震災100周年で、松野博一官房長官が、震災時の朝鮮人虐殺について「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」とコメントしました。

 

これについては、日経・井上編集委員も厳しく批判しています。確かに、戦災で多くの資料が焼失したのは事実だけれども、「おびただしい数の被害、加害、目撃証言が残されている。民間には虐殺事件を調査、研究した書籍、文献がそれこそ山のようにある」。虐殺がなかったという議論は、以前はほとんどなくて、「実証的歴史学ではもう確定されたことだった」。

 

ところが、ネット時代に入ってから、「虐殺がなかった」と言う人たちが出始めています。こういう状況の中で、小池百合子都知事が対朝鮮人虐殺追悼のメッセージを出さなくなりました。フェイクである「虐殺がなかった」論を相対化して、「2つの物語があるじゃないか」となっちゃっているわけです。

 

「歴史の相続放棄」という言葉を使って、井上編集委員は書いています。「どのような国家、国民にも子々孫々語り継いでいきたい誇るべき歴史がある一方、できれば触れたくない、目を背けたい歴史もある」「われわれ人類は生まれた時点でゼロからスタートするのではない。先人が築いてきた歴史を土台として新たな社会、文化、文明を作り上げてきた。人の長所、短所は表裏一体という。歴史の正も負も同じであり、不都合な歴史に目をつぶることは、誇れる歴史をも脱ぎ捨てて、丸裸の根無し草になるに等しい」と書いています。本当にその通りだなと思って読みました。

 

「虐殺がなかった」という物語を作ってしまって、それにしがみつこうとする人たちが出てきています。「虐殺はなかった」と言う人の言葉を聞いたら、「この人は、あまり信用できない人だな、と思ってかまわない」と、私はいつも言っています。単純な物語には、気をつけましょう。

 

神戸金史・RKB解説委員長

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この記事を書いたひと

神戸金史

報道局解説委員長

1967年、群馬県生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。現在、報道局で解説委員長。