戦争捕虜について調査を行っている民間団体、POW研究会の会員から「石垣島事件」に関する重要な資料が寄せられた。アメリカの国立公文書館に所蔵されている米軍の報告書の中に、石垣島事件で殺害された米兵3人が乗っていたグラマン機が海に墜落した、その瞬間をとらえた写真があったのだ。そして搭乗員3人は行方不明だと記されていた。
炭鉱からつながった捕虜をめぐる縁
石垣島事件の現場取材をしようとロケの準備をしていたところ、POW研究会の会員で福岡在住の古牧昭三さんから連絡があった。「石垣島事件」で殺害された米兵が乗っていたグラマン機の墜落の瞬間をとらえた写真があったというのだ。古牧さんとは筑豊の炭鉱をテーマにした絵本「ボタ山であそんだころ」(石川えりこ作・福音館書店2014年)の原画展で知り合った。絵本の舞台になっている山野炭鉱は、藤中松雄のふるさとである嘉麻市にかつてあった炭鉱だが、戦時中は連合軍の捕虜が労働させられていた場所でもある。POW研究会によると、終戦までに日本に連れてこられた連合軍捕虜はおよそ3万6千人。当時、戦争を支えるエネルギー源だった石炭を掘るために、福岡県の炭鉱には多くの捕虜が連行され、県内には16もの捕虜収容所が設けられていた。捕虜の扱いをめぐっては戦後、管理にあたっていた日本兵がBC級戦犯に問われ、スガモプリズンで処刑された。そのうち「福岡俘虜収容所」に関係する人は9人もいた。藤中松雄は捕虜収容所とは関係がないが、産炭地であった福岡県はそもそも捕虜とは関係の深い土地柄だったのだ。
訪日した元捕虜の家族から届いた資料
外務省は元捕虜の家族を日本に招聘する友好事業を行っていて、古牧さんはその案内役をされていた。2018年、元米兵捕虜の家族が筑豊の炭鉱を訪れた際に、ローカルニュースとして同行取材をさせていただく機会があった。父が捕虜だったというアラバマ州在住のジェームス・ライトさんは、その当時で82歳だった。ジェームスさんの父が労働させられていたという炭鉱は50年前に閉山していて、現地に行っても当時の面影はほとんどなかった。しかし、RKBのライブラリーを検索すると、稼働していたころのその炭鉱の資料映像が残っていたので、それを使ってニュースリポートを放送すると、大変喜んでくださったと聞いた。
石垣島へロケを組んだ2020年の10月当時、新型コロナウイルスの感染拡大で、アメリカの国立公文書館は閉館していた。「石垣島事件」で殺害された3人の米兵が任務を負った石垣島への攻撃に関する軍の資料を探そうにもどうしようかというタイミングで、古牧さんからジェームスさんが入手してくださったという米軍資料が送られてきた。訪日以来、古牧さんはジェームスさんと交流を続け、ジェームスさんはアメリカ側の資料を探すなど協力をしてくれていたそうだ。
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この記事を書いたひと
大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞など受賞。